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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ビアウィストック・ブラニキス宮殿-Pałac Branickich w Białymstoku-
Pałac Branickich w Białymstoku
Pałac Branickich w Białymstoku1
Pałac Branickich w Białymstoku2
Pałac Branickich w Białymstoku3
Pałac Branickich w Białymstoku4
Pałac Branickich w Białymstoku5

ポーランドのヴェルサイユ宮殿と言われるほど美しい宮殿。
Piotra Wiesiołowskiego .によりもとあったゴシックルネサンスの城を造った。Mikołaja Raczkowiczaが指揮する形で造られ、Piotraの妻Katarzyna Wołłowiczówna が亡くなり、2人目の夫人を迎える時だった。城の周りの濠を生かし、中庭は宮殿の庭園として生まれ変わるようにすることをPiotraの息子 Krzysztof Wiesiołowski がリトアニアの設計師を招いて造った。しかし、1637年に彼は亡くなると彼の妻は亡くなるまでその城に居住した。
スウェーデン侵攻に備えリトアニア人のJanuszowi Radziwiłłowi がこの城を防衛。やがてPawłowi Sapieszeがこの地方の知事よりこの地を指揮することで大佐の位が授けられた。スウェーデンとの戦争でが功績をあげるとJana Klemensa Branickiegoの娘Katarzynie Aleksandrzeを娶り、ポーランド・リトアニア共和国議会は彼にこの地を授けることとした。それ以降、この土地はBranicki家のものとなった。
やがてステファンはユトレヒトの職人Tylmanowi z Gameren .を呼び、ワルシャワのクラシニスキ宮殿を設計したMichała Radziejowskiegoをも呼んで荒廃した城を建て替えるために宮殿建設に着手した。っていうかJana Klemensa BranickiegoはPiotra Wiesiołowskiegoの子孫で、Stefan Mikołaj Branicki =Stefana Czarnieckiegoで彼は妻のお父ちゃんに建設指揮をとるようにお願いした。
1691年から1697年にかけて造られた。 とりわけ、元あった城の塔の一つは階段として使用した。 次の改造時には、横方向の付属建築物を増加させ、多くの彫刻をイオニア式列柱を建てた。 城の庭園の中の池の近くに、17世紀の教区教会があり、そこには塔からの地下通路があったんじゃないのかという言い伝えもある。
宮殿のさらなる拡大は、Jana Klemensa Branickiegoと妻の Izabeli Poniatowskiej .の要請によるもの 。 Jan Zygmunt DeybelがTylmana z Gamerenの後を引き継ぎ、中庭を囲むように馬蹄形のフランスの宮殿式に付属建物を設計し建築した。何人もの職人たちの手によってロココ様式の内装は豪華絢爛に装飾されていった。
そんな宮殿にはヨーロッパ中から数々の文化人が訪れ、はたまた時のポーランド王アウグストス2世、3世、ザクセンのツィマーマン選帝侯、イグナシウス・クラシツキ枢機卿、フランスに亡命したスタニスワフ·アウグストゥス・ポニアトフスキ、ロシア皇帝ピョートル1世、はたまたフランス国王ルイ18世とその名声はヨーロッパ中にとどろいていた様子。
1754年にここに軍事学校が造られ、1773年にはSzkołę Akademicką Zgromadzenia Białostockiegoという軍事大学が設立された。
しかし、1801年になるとポーランドの一部はロシアの領土となってしまう。やがてこの宮殿はツァーリのものとなり、ありとあらゆる陶器や彫刻はぺテルスブルクへと持っていかれてしまった。
でも悲劇もあれば幸運なことも・・・。
第一次世界大戦ではこの宮殿は無傷に近い状態で残った。野戦病院とあいて使用されただけだった。その後地方の知事の公邸に使われた。
しかし、ポーランドボルシェビキ闘争でポーランドの臨時革命委員会の事務局が置かれた。
そしてナチスドイツのポーランド侵攻。1944年に無傷に近かった宮殿もドイツ軍撤退の際に70%が破壊された。
でも戦後ポーランドは社会主義にはなったもののStanisława Bukowskiegoの指示の下18世紀風に宮殿は再建されたが・・・。その中身はお粗末の一言だった。
1990年になって西側の資本が入ると 宮殿礼拝堂のAugustyna Mirysa.の絵を修復させ、2006年には宮殿のBranickich Gryf(門)を再現、2011年には宮殿の再建、2012年には庭園が整備完了させた。

破壊と再建の繰り返し。未来永劫続く人間の営みのような・・・またその愚かさのような・・・。


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