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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ボロンガロパラースト-Bolongaropalast-
Bolongaropalast
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この宮殿はフランクフルト‐ヘーヒストにある。
1772年から1774年にかけてイタリアのマッジョーレ湖畔のストレーザ・アム・ラゴ出身のタバコ商人Josef Maria MarkusとJakob Philipp のBolongaro兄弟が建てた宮殿。
彼らは1735年にフランクフルト・アム・マインに定住した。そしてヨーロッパ最大の嗅ぎタバコ工場と店を設立した。しかし、彼らはルター派を信仰しカソリックが本流の自由都市フランクフルト・アム・マインでの市民権が得られなかった。やがてマインツ選帝侯=マインツ大司教のEmmerich Josef von Mainzに直訴して(それなりの献上金を差し出したんでしょうけど)1768年に計画された新しい町ヘーヒストの建設の案をマインツ大司教が提案。それを7聞いたBolongaroは1771年からその町を造るために尽力したが、1774年に大司教が亡くなると計画は放棄された。完成していた宮殿にBolongaro兄弟は一瞬だけ過ごすことができたが、計画の保護は彼らを失意のどん底へと突き落とす。Josef Maria Markus Bolongaroが1779年に亡くなるとフランクフルト市議会はやっとのことで彼らの市民権を1783年に認めた。
この宮殿にはマポレオン・ボナパルトとライプティヒの戦いで対戦したGebhard Leberecht von Blücher元帥がここに戦いに前線基地を設けた。
ボロンガロの家族は1862年にこの宮殿をマインツの織物業者の Friedrich August Sonntagに売り渡した。1880年レーデルハイム選出のフランクフルトの市長Eduard Lohoffが買い、それを小さく振り分けていろいろな人に貸し出した。すると中にはベッドを生産するためにそこに使用されるスプリングの真鍮を鋳造するものなども出てきて、宮殿の豪華なインテリアは損傷していった。
1907年から1908年にかけてフランクフルト市は貸し出されていた宮殿の部分部分を回収して、宮殿を元の姿に戻すことにした。やがて1928年までフランクフルト-へーヒスト市のタウンホールとして、その後はフランクフルト西部行政地区の事務所やフランクフルトの市長の公邸などになった。

北ファサードは通りに面しては117メートルの長さである。宮殿のレイアウトは馬蹄の形をしていて、背面側に配置されている公園は、テラスレベルに2つ階段を下りると隣接している。
1909年、フランクフルトの彫刻家によって"トリトンの噴水がジョセフ·ケラーによって作成されました。円形のテラス階段とネオバロック様式の噴水にイルカに乗っているトリトン像が中央に位置している。

建物は、鏡張りの部屋、天井の絵画やシルクの壁紙の壮大なお部屋がある。また一見の価値があるチャペルや華やかなバンケットルーム(宴会場)があります。一階は 床がユニークで、最も完全である磁器の展示室はパッサウの工場で造られたもので、それは1927年に当時の磁器の最高の複製品とのこと。礼拝ホールと同様の豊富な漆喰や壁装材に装飾された客室には18世紀のBolongaros家の豪勢な生活を垣間見ることができる。
チャペルホールで現在コンサートや文学のイベントに使用される。夏にライブシアターが開かれ広い庭園が使われる。2004年以来、ここで夏の終わりにバロック演劇祭が催されている。



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