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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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スモルニチー宮殿-Pałac w Smolnicy-
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ネオクラシックとネオバロック様式の宮殿はフォン・デル・マールヴィッツ家のアルブレヒト・ベルント・ルートヴィッヒの末息子クリスティアンによって1766年に建てられた。
1806年から1807年のナポレオン侵攻により、フォン・デル・マールヴィッツ家のプロイセン帝国からの年金が途絶え、経済状態が困窮すると、この宮殿は一時ナポレオン軍に差し押さえられた。そして、地元の農民はさらに貧しくなっていった。
ナポレオンがこの地から退くと世襲農奴制の法律は改正され、この地を所有していたフォン・デル・マールヴィッツ家はプロイセン王国の顧問のアーロン・マイヤー‐コルメッカーの仲介により、ヨハン・カール・イェンシュに不動産を1826年に売った。また1832年にベルリンに住むフリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シドーがこの宮殿を所有した。その後1840年にフリードリッヒが亡くなると未亡人のアデラーデ・フォン・デル・オステンがここを所有し、1857年から1866年にかけて宮殿を全面改装した。
1879年に火事により宮殿は全焼。1880年から1883年にかけて再建。新しい建物は白の漆喰を湖面に映し、北正面にはフォン・シドーの家紋の薊とフォン・デル・オステン家の家紋の茨を玄関の上に彫刻した。家具は18世紀から19世紀にかけてのブラックオークを使ったものを置き、中国製の花柄の磁器、デルフトの陶器の花瓶やオランダの画家ファン・ダイクなどを飾った。
1909年に屋敷はマックス・フリートハイムが買い取り、建物の外観をライトブラウンに塗り替えたりした。
しかし1932年にフリートハイム家に不幸が訪れる。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻するとドイツ系の彼にドイツ人の誇りと共にヒットラーへの忠誠を強要される。彼はそれを拒み家族とともにイギリスへと亡命しようとした。が、その後のマックス・フリートハイムの行方は不明であった。
第2次大戦中ナチスの事務局員のフリードリッヒ・フリックがこの屋敷に居を構えた。戦後、すぐにソビエト連邦の侵攻により東部方面の司令官デンプノがこの屋敷を破壊するとともに、兵たちは屋敷の調度品を略奪していった。
1956年からシレジア地方の炭鉱労働者のための農業組合PGRによって管理され、1965年には農務省のシュチェチン地方事務局の農業学校になった。









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