FC2ブログ
宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

プロフィール

zamekzamek

Author:zamekzamek
貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


現在の時刻

月別アーカイブ

分類

検索フォーム

最新記事

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





ニュールブルク城-Nürburg-
Nuuml;rburg
Nuuml;rburg1


この土地は先史時代からの遺跡があるが一般的な見解として古代ローマ時代にここに砦が築かれた。
その中にローマ皇帝ネロの硬貨が出てきたりしているが、それもはっきりとした理由づけにはなっていない。
この城を築いたのはテオドリッヒ1世アレ伯爵ではないかとの見解が地元考古学者の考えるところ。その息子ウルリッヒ・フォン・アレがアデナウ伯爵と自称し、考古学者たちがそれを裏付ける証拠がないにもかかわらず、城建設の責任者だと考えられている。またアデナウ→アルテナール→アールガウと名前が変わっていったのはカロリング朝の貴族たちの特徴のようだ。彼らはライン渓谷支流のアイフル地区やライン川のアールガウ地区を領地とし、独立していた。やがてファミリーツリーは二分化しアレ=ホッホスターデン家が出来た。その子孫がケルン大司教コンラート・フォン・アレ=ホッホスターデンとなり、本筋のアルガウ家が途絶えると彼に城の所有権が回ってきた。
そこで彼はニュルブルクの城に大きな円塔を建て、ここにケルン大司教の永続的な公式行事の席を作った。1792年にルパート2世がこの城での行事を嫌うまで500年以上続いた。
1534年にアウグスト・フォン・ブラウンスベルクがこの城に赴いた際の壊れように唖然とした。谷への門は崩壊寸前で大改修をしたかと思うと、円塔が嵐で雨漏りしまくり。それで中が腐って倒れそうになっていたのをやっぱり大改修した。そして1535年に補修が終わると、ここに醸造所、牛舎、肉屋、パン屋などを造り自給自足できるようにした。と思ったらオランダの兵士が1587年に攻撃。1605年にもスペインの攻撃で城はぼろぼろ。もう塔などはほっといて住居部分をよくしようと、ケルン大聖堂関係の司教会議で決まったことは77の窓を造り住みやすくした。というところ。またまた1633年には30年戦争に乗じてスウェーデン軍がこの城を占拠した。ボロボロとはいうものの要塞としては立派な砦。そこでスウェーデン軍はドイツ軍とたたかった。
壊れかけの城は更に壊れ、1752年にはこの城は牢屋になってしまった。そして放置同然の城から石が取られ、地元のフランシスコ修道院の修復のために使われた。
そして決定的な崩壊は1801年のナポレオン侵攻。周りを覆っていた城壁が大砲によって吹っ飛ばされた。

19世紀半ばからライン川は上流階級の旅のロマンをそそるポイントとなると1846年から1878年にかけて徐々に修復されていった。階段を堅い石を頑丈に固定して造り、塔ももとあったところに再建された。しかし、メインゲートと内壁はロマン主義の時代です。おとぎ話のような装飾を施したのはいうまでもない。

今ではラインランドプファルツ州の管理のもと観光客の安全のために壊れたところはすぐに補修をしてるとか。300年も放置されたらどんなものも壊れてますわ。




市のサイト










上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。