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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ウェントウァース・ウッドハウス-Wentworth Woodhouse-
Wentworth Woodhouse
Wentworth Woodhouse
Wentworth Woodhouse


サウスヨークシャー地方のウェントウァースの街の近くのロザラムに有る邸宅。
この邸宅、東部分のファサードの長さではヨーロッパで一番長い185mあるそうで、部屋の数は200部屋を超え、1.01㌶の面積を擁している。それはイギリスで一番大きなプライベート邸宅。それでもって6100㌶のお庭を持っているっていうのだからイギリス貴族の桁違いな不動産の大きさには吃驚!!
この邸宅は東と西の家屋はそれぞれに分かれていて、東側の建物はウェントウァース家とステインボロー家との継承争いの結果、そのウェントウァースの名前を勝ち取ったストラトフォード伯爵にしてバロン男爵のトーマスのものになった。でも彼はそれを住居にするのではなくアンソニー・ヴァン・ダイクやダニエル・マイテンスなどが描いた肖像画で長いギャラリーを造った。またトーマスはこの近くではないがウェントウァースとステインボローのタイトルをものにできたので、1708年にウェントウァース城も手に入れた。
1728年邸宅の西側をThomas Watson-Wentworth, 1st Marquess of Rockinghamが1723年に父親から不動産を継承するとジャコビアン風のバロック様式の邸宅建設に着手する。それを子供が受け継ぎ、ヨークシャーの建築家のラルフ・タニクリフに仕事をさせたが、ほぼ完成の折にはそれがお気に召さず、1734年にヘンリー・フリットクロフトに建築家を替え、東側の建物を改築させつつ西側の邸宅も完成させていった。
Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham は東側の邸宅を更の拡張した。ジョン・カーによるもの。だがそれぞれの部屋のデザインには「Pillared Hall」にJames "Athenian" Stuart を、「Whistlejacket Room」にはGeorge Stubbsをそれぞれ起用した。Whistlejacket Roomにはその名前の通りの競走馬のポートレイトが飾られ、それは今ロンドンのナショナルギャラリーで展示されている。
やがてこの邸宅は第2代ロッキンガム公爵から妹の家族のフィッツウィリアムス伯爵家に継承された。
フィッツウィリアムス伯爵は1790年にハンフリー・レプトンを招集し庭園を造営させた。
「Doric Lodge」「The Needle's Eye」「Doorway to the Bear Pit」「Keppel's Column」「The Rockingham Mausoleum」などのオベリスクを配置したりした。
1946年から1950年にかけて庭園の大部分を石炭の露天掘りの現場となった。それは時の労働党政権の施策で邸宅の近くまで掘り起こされてしまった。そのために建物の地盤沈下が起こってしまったと、今なお政府と係争中。
そんなことがあるとフィッツウィリアム伯爵家の邸宅を維持するお金も無くなり、ついには手放すことになってしまう。だから邸宅の中に有った有名な美術品は海外にも売り出されて、アメリカやフランスにも存在する。
でも庭園だけはトラストが組まれてこの邸宅を一般公開することで美術館的に運営している。またLady Mabel Fitzwilliamは維持資金のために庭園はナショナルトラストに、邸宅の一部をシェフィールド工科大学に貸すことにしたけれども、法外なメンテナンスを要求されたのでそれは諦めた。
今のこの邸宅の所有者はニューボールド家



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クレイズ・ブーゥエルト城-Kasteel Claeys-Bouüaert-
Kasteel Claeys-Bouüaert
Kasteel Claeys-Bouüaert



この城は現在ゲント市のMariakerke地区にある。
1890年から1892年にかけて Joseph SchaddeがAlfred Claeys-Bouüaert(アルフレッド·ルイ·フェルディナンドジスランClaeys Bouuaert(ゲント市生まれ、 1844年5月16日誕生 -1936年 3月3日死亡) ベルギーの上院議員で弁護士。)の依頼によってそこにあった古い城を改築したもの。さいごの住人は1971年までこの城に住んでいたAlfons Claeys Boúúaert van den Peereboom。
その後Mariakerkeの街が買い受けた。


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ヤンスキー・ヒルヒ城 -Zamek Jánský vrch-
Jánský vrch
Jánský vrch
Jánský vrch
Jánský vrch
Jánský vrch



この城は北モラビア地方の国境近く、シレジアと交差するJesenicka地方Javorníkem市にある城。
13世紀の前半、Javorníkemの街を守るための戦略的な城として司教のPředslavovi z Pogarelが建てさせた。司教区は広大でその周辺には幾つもの城が建っていた。
15世紀になると宗教改革によるフス戦争によって大きな被害が生じた。それは司教区の壊滅をも意味していた。
15世紀後半からはヤナ・ロータ司教の指示の下、城の大改修が行われた。やがてそれは1509年次の司教のヤネム・トゥルゾウによって後期ゴシック様式の城へと生まれ変わった。そして城の名前も聖バプテストの守護聖人ヤナ・クリトゥテレから「Jánský vrch」(ヤナの丘)と改名した。
18世紀、Filipa Gotharda Schaffgotsche司教が後期ルネッサンス様式を彷彿とさせるバロック様式の城に改築した。1769年 ヴァイオリニストで作曲家のKarla Ditterse z Dittersdorfuがこの城に招かれ、司教はシレジア地方での音楽をもっと盛んにしようと試みた。約30年間Karla Ditterse z Dittersdorfuはこの城に住み続け、その間にドイツコミックオペラの楽曲を40ほど作曲した。彼はドイツコミックオペラの生みの親でもある。それを忍んで夏にはオペラのコンサートが城で行われている。
Filipa Gotharda Schaffgotsche司教が亡くなると次の司教のJosef Krystian Hohenlohe Waldenburgは夏の離宮を造るようBartensteinに要請した。それは19世紀に入ると完成した。
1856年から1857年にかけてドイツロマン主義の詩人Josef von Eichendorffがここを訪れた。
1959年に城は一旦国に貸し出される形になったが、そのまま国有化となり、チェコ共産党幹部の贅沢な別荘となった。しかし、1984年ポーランドとチェコのキリスト教会の反発に遭い、城は教会の管理下となった。
今ではJesenicka博物館として運営されている。


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ボスコビツェ城-Zamek Boskovice-
Boskovice-zámek
Boskovice-zámek
Boskovice-zámek


中世からの城が近郊にあったが1733年に不動産は放棄されていた。
1819年ドミニコ会修道院跡にフランツ・ヨーゼフ・フォン・ディートリッヒステインがこの土地の所有者のようにしてこの城を建てさせた。(ってどんな詐欺?詐称?)城を設計した者は不明。仮定としてウィーンの大手建築会社を設立したペーター・フォン・ノビレではないかとのこと(ドイツ・ケルンの建築請負会社の社長にして研究家のヨーゼフ・エシュ氏の仮定)1784年にドミニコ修道会が時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世の許可を取って修道院内の土地にどっかで取り壊した城の材料を使って簡単に再生させ、塗料を新しく塗って出来上がったという………。ディートリッヒステインは修道院関係者と言うことです。
城はモラビア地方のオーストリア帝国のスタイルの最初の城となった。
1830年にはヨーゼフ・ハイェックが庭園を設計。帝国スタイルの温室などを併せ持っていた。が1856年に城はMensdolff-Pouilly家のものとなった。
1916年設計ミスにより城の西側に欠陥が発生。回廊は基礎のアンカーボルトや表からは見えないようにつっかえ棒の支えを施す始末。再設計をし直し崩壊寸前の壁は何とか持ちこたえると、窓やドアは開くようになった。
1948年ソ連侵攻でチェコは社会主義国となると、城は国有化。1991年にやっと自由主義の波が押し寄せると城は基のMensdorff-Pouilly家のものとなった。
今はホテルとして使われている。


Hotel








バドミントンハウス-Badminton House-
Badminton House
Badminton_House1.jpg
Badminton House2
Badminton House3
Badminton House4
Badminton House


1612年に第4代ウースター伯爵のエドワード・サマーセットは1275年以来ずっとこの領地を所有していたニコラス・ボートラーから買い受けた。エドワードは住まいだったラグラン城が火災で燃えてしまったためにこの地に移住した。
1620年にエドワードの第3子のトーマスが古い邸宅を改築し、T字型の切り妻屋根の邸宅にした。現在その跡が北西にみられる。
1713年第3代ビューフォート公爵サー・トーマス・サマーセットは更に東側に中庭を囲むように古い邸宅を拡張した。北側にはイニゴ・ジョーンズの様式(セントポール大聖堂、グリニッヂハウスを手掛けた建築家)を用いて壮大な鐘楼塔を並べた。5階建ての鐘楼塔を挟んで3階建てのフロアーが繋げられた。それはジェームズ・ギブスが設計した。
1745年にはウィリアム・ケントによる改築がなされ、パラディオ形式の建物が第4代公爵の指示によって造られた。
この邸宅がバドミントンハウスという名前になったのは、第8代公爵が英領インドにて行われていたフェザーシャトルコックをラケットで打つスポーツをこの邸宅で子供たちのためにさせたのがきっかけだった。ホールを使い、1863年の寒い冬、画家のジョン・ウートンの発案でそれは行われた。やがてビューフォート公爵家では恒例の行事となった。
第2次世界大戦中、ロンドンから疎開したメアリー女王はこの邸宅のグレートハウスに滞在した。女王と一つ屋根をともにする公爵と公爵夫人は何かと不便はあったものの、女王との同居はそれはそれは光栄なことだったのだろう。「She lived in all of it」と公爵夫人は言いました。
この邸宅は1949年来の英国最高のバドミントン総合馬術大会が今も行われている。
またビューフォート公爵家主催のキツネ狩りも有名でイギリスの2大クオーンハントの一つに数え上げられる。
この邸宅は一回ほど一般公開されたが今はされていない。また映画「日の名残り」「28 Days Later」「パールハーバー」でのロケ先となった。


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