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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ネッカースルムのドイツ騎士団の城-Deutschordensschloss Neckarsulm-
Deutschordensschloss Neckarsulm
Deutschordensschloss Neckarsulm

ネッカースルムの町自体がドイツ騎士団によって建設が進められた要塞都市で、パラスと呼ばれる本丸は町の南西部に位置する。城の起源は13世紀。マインツの大司教の荘園にヴァインスベルク家が守りを固めた。
1405年には犬や馬の納屋を建設し、1411年には都市の政府庁舎を建設した。
農民戦争により城が破壊されると、1525年にドイツ騎士団がこの地を統治した。城は大幅に改築された。
1722年には北側へと新しい建物が増築されていった。
その代表的なのがバロック様式の塔。また1834年ごろ町の東側に建物が建てられ、1869年にはシュロスストラーセが出来上がったが、1945年の第2次大戦での爆撃によって、城のほとんどは破壊されてしまった。
しかし、1949年には城や町の中世風の佇まいは復元され、礼拝堂も町のランドマークとなり、そのバロック様式玉ねぎ型の屋根が見られるようになった。


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メックミュール城-Burg Möckmühl-
Burg Möckmühl


城は最初1150年頃コンラート・フォン・デュルンが建てた。
1258年ごろデュルンが亡くなると、その未亡人のマチルダ・フォン・メックミュールがこの城を所有した。その孫ポッポ・フォン・デュルンはアニエス・フォン・ホーエンローエと結婚、この城はホーエンローエ家の所有となった。
1338年にアルブレヒト・フォン・ホーエンローエの息子のバイエルン公爵のルートヴィッヒがこの城の近くに修道院を造った。しかし、1642年のプファルツ継承戦争に於いてフランス軍に破壊された。
1445年にルートヴィッヒはプファルツ選帝侯にまで上り詰め、妻のウルリヒ・フィエルガリエブテン・フォン・ヴュルテンベルクにこの城を売った。ヴュルテンベルク公爵の娘名だけに、公爵のものになりそうだったがそんなことはなかったようで無事にバイエルンの領地に収まっていた。
後にヴュルテンベルク公は後悔した模様。
1781年に城と町は分離され、城の所有イコール街の所有ではなくなった。
1829年に城はグスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンレーベンは購入。13世紀の中世の見張り塔を再建し屋根を高くし城を昔の姿に戻した。
1945年にアメリカ軍の砲撃により壊滅的な打撃を負うが、アルヴェンレーベンはまたしても城を再建。1996年まで家族が住んでいたがその後売却した。
城の最も古い部分はロマネスク様式。




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マッセンバッハ城-Schloss Massenbach-
Schloss Massenbach
Schloss Massenbach
Schloss Massenbach
Schloss Massenbach
Schloss Massenbach
Schloss Massenbach



マッセンバッハ家は773年にこの地に布教に入ったロルシュ修道院の僧侶かその防衛隊員のファミリーネーム。12世紀にはこの地で貴族の称号を得、クライヒガウの騎士として籍を置いた。そして1806年までこの土地を所有することになった。
30年戦争やプファルツ継承戦争で城は破壊されると1721年から1788年にかけてゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・マッセンバッハによってロココ様式の城が建てられた。
1805年にナポレオンが攻め入ると。ここはその後にイギリス軍の駐屯地になった。ウィーン会議後、城は一部を残してヴュルテンベルク王国のものになり、1848年のハプスブルク家のドイツ帝国からの撤退に対して、城はすべてヴュルテンベルク王国のものとなった。
城はビバーバッハの谷の小川の畔に建っている。
城は2階建ての砂岩レンガの壁にマンサール風の屋根に(なだらかな傾斜から下に行くほど急傾斜の屋根へと変化する)なっている。城の中庭は2つの翼により囲まれ、西側の翼からテラスへと出る。城の中央は切り妻屋根の玄関を入ると華やかなインテリアの広間へと繋がっている。1990年代から城の南側地下にレストランを造り、商業目的に利用されている。
来たには農場を配し、西側には1578年以来の納屋があったが1980年に火災で焼失。その後再建された。




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マゲンハイム場-Schloss Magenheim-
Schloss Magenheim
Schloss Magenheim


城の正確な建設年ははっきりしないが、基礎の様子から1230年から1250年にかけての物と推測される。
マゲンハイム家が住み、その領地の中心的な場所であったが、ロルシュコデックスの記するところによると、この家系は1410年ごろの男系を絶っている。
今はラメツァン男爵の個人所有のために非公開。
一年に数回コンサートが開かれ、教会では市民による行事が催される。








リーベンステイン城-Schloss Liebenstein-
Schloss Liebenstein
Schloss Liebenstein
Schloss Liebenstein


リーベンスタイン城の最初の領主は11世紀に南アルザスから移り住んできた。
1200年代にラインハルト・フォン・リーベンスタインがそこに住んでいたネイティブの西ネッカー族から砦を奪った。それを受け継いだアルベルト1世は1212年ごろ部族を滅ぼした。そして新たにカウフェンの家系を勃興した。
1225年に農場を開拓、1261年には Itzinger Hof ein Dominikanerinnen-Nonnenklosterを造るとそこにあるベルト1世、2世の親子が葬られた。
アルベルト2世にはコンラートという息子がいて、そのコンラートに一人はオットー。もう一人はハインリッヒという息子がいた。
ハインリッヒが城を継承し、その息子はペーター。またその息子がコンラート2世が、ペーター2世、やがてハンス3世へと続いていった。
城は1525年に改装されると1600年にも改装された。
城の中はひとつのコミュニティーのように城を中心にルネッサンスの町が出来ていた。
やがて城は1673年にヴュルテンベルク公爵に城を売った。公爵はリーベンスタインが土地を売らなくてはいけないような事態になったことを憂いて、ここにワイナリーを造った。
プファルツ継承戦争になると、この城はフランス軍に荒らされまた味方の兵士なども略奪に走った。
その後、城は見捨てられた状態となり、1800年にヴュルテンベルク公は売ろうとしたが買い手が付かなかった。1807年にイツィンゲンの裁判所の命令により城は解体して売られることになった。
商工会などが仲介し土地の転用をいろいろ考えたが、最終的にこの城は2人の農場経営者に土地を貸すことにした。彼らは城の中の狩猟ロッジがまだ現存していたので、そこで生活をしながら農業に専念した。
そんな折、シュヴァーベンの詩人Eduard Mörike がここを訪れるとそこでは貧しい農民の少年たちが半ば強制労働を強いられていた。それを見たEduard Mörike は彼らに援助を差し向けなければいけないと感じ、食料や衣服、そして休憩所を作ってあげた。
農業に従事する人々の劣悪さから来る短命は社会問題となっていた。
1914年に礼拝堂は新しく建て替えられたのかエントランスを改装した。
やがて1945年ドイツ軍から一時的にフランス領となったこの地域にフランス軍の砲兵連隊が乗り込んだ。しかし、そこはドイツ軍にされたようにはしないフランス軍。城の狩猟ロッジを新しいものに直して去って行ったとか。
やがて城は一時的にネッカーヴェストハイムの町のものになり、その外郭団体のサポート協会によりスポーツやレジャー施設へと変身した。
1982年にはGolf- und Landclub Schloss Liebenstein e. V.によりホテル・ゴルフ・レストランと利用されている。


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