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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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クリンゲンステイン城-Schloss_Klingenstein-
Schloss_Klingenstein


クリンゲンステインの城は1756年にフランツ・マリア・アントン・フォン・ベルンハウゼン男爵が1588年に建てられた古い城の敷地を拡大して別に建てたもの。
その後はいろいろな領主の手に渡り、1803年にはバイエルン王国のものになった。
1860年に薬剤師のエルンスト・グスタフ・ロイベがこの城をクリンゲンステイン市が購入しようとしたのを取りやめさせ、彼が購入することになった。その後ロイベ家はドイツでも指折りのセメント業者となり、この城は家族の夏の別荘として使われた。
城の三位一体の礼拝堂や城の中庭や、住居部分を見学することができる。西に聳えていた古い城は1860年に取り壊され、今はロココ様式の城や礼拝堂の祭壇画(ヨハン・バプティスト・エンダール作)が出迎えてくれる。


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グランハイム城-Schloss Granheim-
Schloss Granheim
Schloss Granheim



この城はドナウアルプ地区のアインゲンにあり、オーベルファフェンホーフェンに向かってフランハイムの街の北側に位置する。
15世紀にヨハン・ネポムク・バプティスト・スペス・シュルツブルク男爵によって城は建てられ、1776年に城はリニューアルしている。城は3段階に傾斜したマンサール様式の屋根になっている。
2004年8月スペス・シュルツブルク男爵がマッセンバッハ男爵に売却した。


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シュツットガルト・新宮殿-Neues Schloss Stuttgart-
Neues Schloss (Stuttgart)
Neues Schloss (Stuttgart)
Neues Schloss (Stuttgart)
Neues Schloss (Stuttgart)
Neues Schloss (Stuttgart)


新宮殿はシュツットガルトの中心部、シュロスプラッツの南に位置に建っている。
1746年から1797年と1805年から1807年の2期に分けて造られたヴュルテンベルク王のための宮殿。広場を挟んで旧城と対に建っている。
第一期目はカール・オイゲンがルートヴィヒスブルクの宮殿を造りつつも、この場所に議会と新しい住居を求めて外国の建築家やカール・オイゲンが設立した大学の建築家を起用して設計・建築が薦められた。もちろん財政困窮で議会からの承認は得られなかったのに、造られてしまった。

最初は1746年レオポルド・レッティがリーダーシップをとって主館・右翼・左翼の三つに囲まれた正面庭園を持つ設計で計画は実行されようとしていたが、1751年9月にレッティは原因不明の病気で亡くなってしまった。
その後、1756年パリの建築家ピエール・ゲピエールが建設大臣に起用され、彼はヴェルサイユ宮殿に見られるような都市計画をシュツットガルトに持ち込んだ。彼はまた宮殿の内装もデザインした。
1762年に庭に面した翼部分の建物が完全に焼失してしまい、またそれが街の建物にも燃え移ってしまった。しかし、翌1763年2月にはカール・オイゲンの誕生日のための行事に向けておおよその外観工事を終了できた。それは宮殿においての最初の大きなイベントだった。そして、カール・オイゲンは更なる凝った内装を要求し、ウィーンの財政委員会から物凄い浪費に議論が起った。1768年にはゲピエールは批判される建築費に仕事を一時中断せざるを得なくなりパリへと帰ってしまった。カール・オイゲンは一時ルートヴィヒスブルクに住居を移し、1775年には工事は一時中断を余儀なくされた。
その頃、ロシア皇帝パヴロ1世とその妻ソフィア・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク(カール・オイゲンの姪)がこの宮殿を訪れている。
やがて新宮殿はカール・オイゲンが1793年に亡くなるとフェルディナント・ラインハルト・ハインリッヒ・フィッシャーによって宮殿は設計され、最終的にはブランデンブルク家出身のフレデリック1世・フォン・ヴュルテンベルクが1807年までに外装・内装共に完了させた。
1918年ヴィルヘルム2世・ヴュルテンベルク国王が退位をすると、この宮殿はヴュルテンベルク王の住居博物館、マジョリカ陶器に見られるリヒテンシュタインコレクションの博物館となった。
第一次大戦、第2次大戦で宮殿はものの見事に破壊された。再建はしたものの一時はホテルなどに使われて物議をかもした。その後、市民や保存委員会、国会などの投票による決定でヴュルテンベルク州政府により新宮殿は復元された。
ヴュルテンベルク州はメルセデスベンツの本社があるだけに、財政的に恵まれていた様子です。


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シュツットガルト・旧城-Altes Schloss Stuttgart-
Altes Schloss Stuttgart
Altes Schloss Stuttgart
Altes Schloss Stuttgart
Altes Schloss Stuttgart


シュツットガルトの中心部に位置した城は10世紀には周りを堀で巡らせていた。
14世紀にヴュルテンベルク公爵の政治の本拠地として位置づけされ、1543年から1578年にかけてクリストフ・ヴュルテンベルク公爵とその息子のルートヴィッヒによってドイツでも指折りのルネッサンス様式の中庭を持った城へと造り替えられた。
その建設において1560年に階段を手がけたブラジウス・ベルヴァルトは1562年に発足した城の会議室の設計などもした。城のお堀は18世紀に埋め立てられ、1931年に城の敷地を市に提供した。が、第1次大戦で両端の塔を破壊され、また第2次大戦ではほとんど城は壊滅状態だった。
1971年に城はパウル・シュミット・ヘンナーの指揮の下再建された。
現在はヴュルテンベルク州立博物館になっている。城の地下にはカール1世ヴュルテンベルク国王とその妻オルガ王妃が埋葬してある。
中庭はイタリアルネッサンスのデザイン建築のアプローチが優れていて、その中庭の中央にルートヴィヒスホーファーによるエーベルハルト・フォン・ヴュルテンベルク公爵の騎馬像が建っている。エーベルハルトはヴュルテンベルク公爵領の首都をシュツットガルトに決めた人。おひげが特徴的。



州立博物館
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ソリチュード宮殿-Schloss Solitude-
Schloss Solitude
Schloss Solitude
Schloss Solitude
Schloss Solitude
Schloss Solitude


1763年から1769年にかけてヨハン・フリードリッヒ・ヴァイングとペーター・ゲピエールによって設計された。
この宮殿はヴュルテンベルク王国の財政難にもかかわらず、ジャコモ。カサノヴァの勧めによってカール・オイゲン・フォン・ヴュルテンベルクが設計者に建設を推進させた。
シュツットガルトの議会とカール・オイゲンの意見は衝突し、王はルートヴィッヒスブルクに住居を移転してしまった。しかし、工事は続行され複雑な宮殿の様式やそれこそ誰も住むことのない孤独な宮殿の審判はは1775年にホーヘンハイムへと持ち込まれた。
1770年住むことのない宮殿を放って置くこともできないためにカール・オイゲンはこの宮殿に陸軍士官学校と芸術アカデミーを置いた。その芸術アカデミーから排出された有名人はフリードリッヒ・シラー。
20世紀になるとこの宮殿は廃墟と化していた。天井はひびが入り雨水が浸透してしまっている状態だったのを1972年から1983年にかけてドイツ連邦政府がニコラス・ギュイベルに天井画を復活させ、内装・外装ともに補修した。
1990年に宮殿は若手の芸術家のための作品発表の場となった。


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