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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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アルトヴィート城-Burg Altwied-
Burg Altwied
Burg Altwied
Burg Altwied
Burg Altwied

1179年テオドリッヒ家によって礼拝堂は建てられる。1259年にこの地の領主のヴィート伯爵夫人によりゲオルクに教会をささげた。それにより城の建設ができることになった。
それから500年の間にアルテヴィートの教区として町はそれなりに城下町として発展していった。
1622年にヘルマン・フォン・ヴィートが城を拡張しつつ新しい邸宅を北側の断崖絶壁に建て、1633年に未亡人となったマグダレーネが1657年まで住んでいた。そしてその子孫も1800年までそこに住んでいた。またランゲンドルフに1648年から小さな要塞を築き、やがてその要塞は18世紀に新しいノイヴィートを建てる基礎となった。
1880年ごろになると昔の古い建物を復元した。ロマン主義の台頭からでしょう。
そこにヴィート家出身のルーマニア女王であるエリザベートが訪れていた。(ってことはこの家系はイギリス国王の家系と親戚なのです)

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選帝侯
いろいろ調べているのもなんなので、ここに転載してしまいましたが、そもそもの神聖ローマ帝国の選帝侯の意義がわからなくなってしまってのことです。
自分なりの後学のために記しました。

選帝侯の一覧

金印勅書で指定された7選帝侯

聖界諸侯
マインツ大司教→レーゲンスブルク大司教
ドイツ大法官。1356年の金印勅書で皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、以後 Erzkanzler durch Germanien は「ドイツ大法官」から「神聖ローマ帝国の宰相」を指す語となった。1803年にレーゲンスブルク大司教と改称。
トリーア大司教(トリール大司教とも)
ガリア=ブルゴーニュ大法官。1801年ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。
ケルン大司教
イタリア大法官。15世紀までは、選出された国王をアーヘンで戴冠した(以降はマインツ大司教が戴冠)。1801年ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。

世俗諸侯
ボヘミア(ベーメン)王
献酌侍従長(シェンク)。ボヘミア王自身国王選挙によって選出される王であったが、1526年にフェルディナント1世が王となり、1544年に世襲の王国とした。このため、以降ハプスブルク家に保有され(ただし三十年戦争およびオーストリア継承戦争の際に一時ハプスブルク家が王位から追われたことがある)、1806年の帝国消滅を迎えた。
ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯、ファルツ伯とも)→バイエルン大公
シュヴァーベン、ライン川沿岸地域における国王代理。家令(トゥルッフゼス、ダピファー)。1623年、三十年戦争に敗れてドイツを追われ、遠い縁戚にあたるバイエルン公に選帝侯位を奪われた。1648年、ヴェストファーレン条約の結果、戦争以前にライン宮中伯の保持していた選帝侯位はバイエルン公のものとなり、ライン宮中伯には第8の選帝侯の地位を与えられた。1777年にバイエルン選帝侯のヴィッテルスバッハ家が断絶すると、カール4世フィリップ・テオドールはバイエルン選帝侯位をも継承した。これによりバイエルンとライン宮中伯の両ヴィッテルスバッハ家は統合され、ヴェストファーレン条約の規定によりライン宮中伯としての選帝侯位は消滅した。以降、1806年の帝国消滅までバイエルン公が保持した。
ザクセン公(ザクセン・ヴィッテンベルク公)
ザクセン法地域における国王代理。侍従武官(マーシャル)。1697年から1763年までポーランド王を兼ねた。
ブランデンブルク辺境伯
財務侍従官(ケメレール、カメラリウス。)1618年よりプロイセン公国と同君連合、1701年にプロイセン公は王に昇格した。

金印勅書以降に選帝権を与えられた諸侯

すべて世俗諸侯である。

ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯)
1623年に選帝権を奪われたが、1648年にヴェストファーレン条約で選帝権を回復した。ただしこの選帝権は新設のものと扱われ、しかもバイエルン公と同君連合した時点で失われると定められていた。1777年、上記のバイエルンとの同君連合により消滅した。
ブラウンシュヴァイク=カーレンベルク公(ハノーファー選帝侯)
1692年に選帝権を獲得した。1714年以降イギリス王位を保持した。
バーデン辺境伯
1803年に選帝権獲得。1806年に神聖ローマ帝国が消滅したため、以下の4諸侯が選帝権を行使することはなかった。
ヴュルテンベルク公
1803年に選帝権を獲得。
ヘッセン=カッセル方伯
1803年に選帝権を獲得。なお、1806年に神聖ローマ帝国が消滅するため選帝侯という地位も失われたが、ヘッセン=カッセルのみはヘッセン=ダルムシュタット大公よりも格上であることを示すため、1866年にプロイセンに併合されるまでヘッセン選帝侯の称号を保持し続けた。
ザルツブルク公
もとザルツブルク大司教が選帝権をもったが、1803年に世俗化され、ハプスブルク家のトスカーナ大公フェルディナント3世が選帝侯となった。


選帝侯の意義
選帝侯は次第に力をつけ、ホーエンシュタウフェン朝の血統が絶えた後は、小貴族をドイツ王に据えて自らの勢力を安定させようとしたが、結果としてプロヴァンス伯やボヘミア王(とりわけオタカル2世)のドイツ国内での勢力拡大を押しとどめるべき存在が居ない、という問題が浮上した。特にボヘミア王のオーストリアやシュタイアーマルクの領有権獲得はかなり強引なものであった。

これを押しとどめるべくドイツ王に選ばれたハプスブルク家は次第に力をつけたが、またドイツにおける宗教分裂やオスマン帝国、フランスの勢力拡大もあって、帝国の安定のためには一定の力を持った皇帝が必要であった。結果として選帝侯は事実上のハプスブルク家の帝位世襲を容認しながら、その権力を行使して皇帝権拡大を防止するという方策を選択した。

帝国が実質的にはヴェストファーレン条約で死んだと言われながらもそののち150年にわたって存続し、しかもその間フランスなどの脅威にさらされながらも小国の寄せ集めであり続け、しかも宗教戦争が三十年戦争を最後にまったく発生しなかったのは、選帝侯たちの慎重な綱渡りの結果なのである。


wiki

詳しくドイツの諸侯領地を記したサイト







ノイヴィート城-Schloss Neuwied-
Schloss Neuwied
Schloss Neuwied
Schloss Neuwied

ノイヴィート宮殿を建設する以前にヴィート家には500年前から古い城があった。
中世から継承されてきた城も軍事的にも重要性が無くなり、経済状況からも新宮殿を建てることを考えさせられるものだった。
1357年にヴェストヴァルトのノルトホーフェンに皇帝フェルディナント3世から領地を承っていたために、ノイエヴィートに小さな要塞を建てていた。1694年にはプファルツ継承戦争でフランス軍の破壊によって城はボロボロだった。
やがて1706年ナッサウ家のためにルクセンブルクの建築家ユリウス・ルートヴィッヒ・ロートヴァイルによる新宮殿の建築が始まった。1748年から1756年にかけてはフランクフルトの建築家カール・ベハゲル・フォン・アドラースクロンが手がける。彼は1757年からヴィート家の夏の住居をこの近くに建てた。
ヴェルサイユ宮殿にみられるバロック様式をドイツで人気の馬蹄形の形にして計画された。
概観は1711年には完成されたものの、1713年から取り組み、2つの建物を同時進行で建てていった。そして40年後には完成した。
階段のホールと天井画はジョバンニ・バティスタ・ゲノムとユジェニオ・カステリが手がけた。
1869年から1873年にロトヴァイルが概観をネオバロック様式に改築した。
1948年に火事に遭い執務室やキッチン、図書館などを焼失させ、ヴィート家所有の車まで焼けてしまった。
1949年には資金調達して新しく城を建て替えた。



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エンゲルス城-Schloss Engers-
Schloss Engers
Schloss Engers
Schloss Engers
Schloss Engers

トリアー大司教クノ・フォン・ファルケンスタインはライン川のエンゲルス市にクノスタイン城を立てた。
兄のヴァルナー・フォン・ファルケンスタインはストルツェンフェルズ城に住んでいたが、弟の死によりクノスタイン城を所有することになり、そちらに住居を移動した。
1757年にトリアー選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・ヴァルダードルフは近代的なノイヴィート宮殿を創設することを試みた。その手始めに住居として使われていたクノスタイン城を破壊すると、バルタザール・ノイマンやヨハネス・セイツなどに新しい宮殿の建設を委託する。
宮殿の概観装飾にはミヒャエル・アイテル、コブレンツの画家ヤヌアリウス・ツィック、彫刻家のフェルディナント・ディーツの参加で1759年から1762年にかけて建設された。
1年の間の9月の狩猟シーズンだけトリアー選帝侯はエンゲルス城に滞在した。9月以外のほかの時期はヴィトリッヒとモルスブルクにトリアー選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・ヴァルダードルフはいた。
そして1768年に彼が亡くなると未亡人のものになったが、1794年にフランス革命軍が侵攻してきた後、1803年にナッサウ・ヴァイルブルク家の夏の住居となった。
1810年にウィーン会議後はプロイセンの管轄領域になり、1862年から1914年までは軍事専門学校となり、1870年から1871年に(オーストリア・プロイセン戦争)、また1914年から1917年(第一次世界大戦)にかけてはそれぞれ戦争の負傷者のための病院となった。
1928年にはヨゼフのゲゼルシャフトとして、障害者のためのケア施設になり、その後はクリスティアーネ・ヘルツォグ・シュールと名を変えて障害者の学校になっていた。
1990年にラインランドプファルツ州のものになり、1995年に「ヴィラ・ムジカ」の施設になっている。


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サイン城址-Burg Sayn-
Burg Sayn
Burg Sayn

Schloss Saynの歴史からさかのぼること900年余り。10世紀にプファルツ・アウエルガウにサイン家の最初の領地があった。
ハインリッヒ1世、エバハルト・フォン・サインはボンの貴族との結婚により旧エセルスブルク城の土地を得て1139年から1150に城を築いた。そして1152年にはケルン大司教との紛争があった。
13世紀ハインリッヒ3世・フォン・サインとその妻マチルド・フォン・マイセン・ランツベルクは新しい城を築く。
1606年ハインリッヒ4世・フォン・サイン・ヴィトゲンスタインに後継者が無いまま死亡、城はトリアーの大司教の領地になったが、すぐに30年戦争でスウェーデンに攻撃される。
ハインリッヒ・ヴィルへルム・フォン・ナッサウ・ヴァイルブルクとルイーズ・イザベラ・フォン・サイン・ハッケンブルクが結婚していたので、1803年には一時ナッサウ家のものになったが、ウィーン会議の決定でサイン城址はラインプロイセン州のものとなった。
1848年にプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルムの計らいで城址のふもとに新たなサイン城がロシアに逃れていたルートヴィッヒ・フォン・サイン・ヴィトゲンスタイン・ベルルブルクへ贈り物として建てられた。









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