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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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アロルセン宮殿-Residenzschloss Arolsen-
Residenzschloss Arolsen
Residenzschloss Arolsen
Residenzschloss Arolsen
Residenzschloss Arolsen
Residenzschloss Arolsen
Residenzschloss Arolsen


ヘッセン州北部ヴァルデック=フランケン地方のバートアロルセンにある宮殿。
1131年にアウグスティン修道院に所属するアロルデッセン教会が領地として開拓した。1526年から1530年に貴族のフィリップ3世ヴァルデック=アイゼンブルクが住居用の城を建設。それも1710年には破壊された。
1710年から1728年にかけてGrafen Friedrich Anton Ulrich von Waldeck und Pyrmontが建築家 Julius Ludwig Rothweilに依頼して、ベルサイユ宮殿のような宮殿建設を実行させた。
1712年にWaldeck und Pyrmont家はGrafの称号からFürstに昇格し、小さな国の王様のような立場となった。それを祝ってだろう本格的な宮殿の工事は1713年から1722年の9年を費やした。また庭園はフリードリッヒの妻 Louise von Zweibrücken-Birkenfeldの提案を取り入れて、1720年に完成した。1728年までには家具調度などが揃い、やっとその場に住めるようになった。その年にフリードリッヒの息子のカール・アウグストが正式にプリンツの称号を受け継ぎ、彼は娘と息子のために2つのアパルトメントを改造した。1746年に西側の棟を王女のためにロココ調の謁見室などに改築。1751年には音楽室が改造され、1749年から1758年にかけて西と東のそれぞれの翼を拡張し、そこに王立厩舎総督邸(?)なるものが造られたらしい。また1809年から1811年にかけてテオドール・エッシャーによってGroße Saalなるものができた。
極小国家がこれだけのものを建てるとなるとそれなりに財政的に破綻してしまう。実際1867年ドイツ帝国樹立に当たって困ったことが起こってしまったようだ。
でもプロイセンの王様は金持だったからそのくらいの保証は出来たみたい。
フリードリッヒ・フォン・バルデックは大公の地位を1829年まで保ち、城と美術品を自分の手中に収めてファイナンスを立ち上げてファミリー財団を創る一方、近隣の森林や農地の権利は州政府や市に寄贈した。
今でも城のどこかに大公一家が住んでいる。けれども一部は博物館として一般に公開している。


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ルンペンハイム城-Rumpenheimer Schloss-
Rumpenheimer Schloss
Rumpenheimer Schloss
Rumpenheimer Schloss
Rumpenheimer Schloss
Rumpenheimer Schloss



最初はのヨハン・ゲオルク・ザイフェルト・フォン・エデルスハイムの邸宅があった。1674年ハーナウの貴族 Friedrich Casimir von Hanauがこの土地を所有すると1678年からここに邸宅を建設した。
90年後の1768年ハーナウ・ミュンツェンベルク家の最後の当主ヨハン・ラインハルト3世が亡くなり、相続するものが居なくなるとカール・フォン・ヘッセン・カッセルがこの領地をエデルスハイム家のプリンスから(分家していたということなのか)領地を買い取ると1771年からカントリーハウスを宮殿へと拡張させ、カールの母親のマリア・フォン・ハノーファーがこの宮殿の内装を提案した。彼女は死ぬまでこの場所に住んだ。1781年カールは宮殿を弟のフリードリッヒに売った。するとフリードリッヒは更に宮殿を拡張し1787年から1788年にかけて工事が行われ、主翼の両側に大きな厩舎を付属させたパヴィリオンが建てられた。また1839年から1840年にかけて庭園も新しく造営させた。
19世紀にはこの宮殿にオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨゼフ・フォン・ハブスブルクやロシア皇帝アレクサンドル3世、デンマーク王のクリスチャン9世やフレデリック7世。1863年にはシュレースヴィッヒ・ホルシュタイン・グリュックスブルク家出身のギリシャ王ゲオルク1世がこの宮殿を訪問している。
でも19世紀後半のオーストリア・プロイセンの戦争でドイツ帝国が樹立するとヘッセン公国はなくなりこうした宮殿は民間に払い下げられ一時はスパホテルとして利用されていた。が、それもうまくいかないとこの宮殿は一時プロイセンで活躍したハーナウ家が住むようになった。しかし、1902年にはそれも放棄されるとプロイセンのヴィクトリア皇后がここに住むようになった。
第一次世界大戦では何の損傷もなかった宮殿も第2次世界大戦で屋根が焼き落ちるほどの空襲に遭い主翼の外壁だけが残る有様になってしまった。
1965年宮殿はオッフェンバッハ市が買い取り、しかし戦後の近代化の中で宮殿を再建することは市民たちの反感も買いそうだったがこの宮殿を高級分譲マンションとして再建し売りだした。2006年には完成。
そういう再建の仕方もあるんだと思わず感心。だからここはプライベートの集合体となっている。








イゼンブルク城-Isenburger Schloss-
Isenburger Schloss
Isenburger Schloss
Isenburger Schloss


1394年にファルケンシュテイン出身の貴族ヴェルナー3世によって最初の濠に囲まれた城が築かれた。
1559年にルネッサンス様式のイゼンブルク城が建てられたが、1564年に火災に見舞われた。その後再建されたが城の南側に位置する回廊が特徴的となった。
1741年、30年戦争にまつわる重要な会議がこの城で催された。イゼンブルク城はフランクフルトにも近くフランクフルトの都市を動かす議員たちがこの地を治めることとなったスウェーデン王グスタフ・アドルフに反発していたからだった。
1883年歴史風景画家びレオポルト・ボーデはこの城にアトリエを持ち、彼の描いた絵が城の建築工事で重要な役割を果たした。
1900年ヘッセン・ダルムシュタット大公はこの城を売りに出して個人所有の城となったが、その後にこの城は荒れ放題となった。Paul Friedrich Posenenskeは1952年から1956年にかけて城をオッフェンバックの市のビルとして再建。しかしディテールの詳細が分からないために苦労した。幾つかは省かれ復元され、内部はモダンな現代的なものへと変わった。
1977年外壁を赤レンガ調の色に塗り直し、2000年から2007年までに城の建築家たちのデータがインデックスとして保存されるようになり、今ではオッフェンッバッハデザインカレッジとして存在している。


collagesite







ビュジングパレ-Büsing palais-
Büsing palais
Büsing palais
Büsing palais
Büsing palais


オッフェンバック・アム・マインの街のリリー寺院の公園の隣に位置している。

18世紀オッフェンバックにて独占的に嗅ぎ煙草商を営んでいたペーター・ベルナルトとヨハン・ゲオルク・ドーフィルがバロック様式の建物と庭園を建てた。1775年にはまだ若かったヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテとリリー・シェーネマンがこの宮殿に住んだ。リリーのお父さんが銀行家で母がフランスのユグノーの血をひく貴族だったために、フランス系ドイツ人のドーフィル一家と仲良くこの宮殿にいたらしい。
19世紀の終わりごろ、この宮殿を手に入れたFreiherrn Adolf von Büsingが建築家のWilhelm Manchotに依頼して、ネオバロック様式の宮殿に更なる拡張をした。
1921年にはこの宮殿は市庁舎となりオッフェンバック市が管理するものとなった。第2次世界大戦では宮殿は主翼の外壁を残して破壊された。1950年以降宮殿の主翼はKlingspor-Museumが置かれ、両翼に図書館と市庁舎機能が置かれるようになった。、現在はオッフェンバッハ登記所も併設している。
またミーティングスペースやホテルとしても利用され、夏には庭園でコンサートなどが催される。


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ボナメス城-Burg Bonames-
Burg Bonames


フランクフルト-ボナメスにある城。
城の起源は11世紀となっているが13世紀に遭った城の外側にそれは存在したみたい。
この城の最初の住人はフランクフルト大聖堂(独:Kaiserdom St. Bartholomäus)の司教シェルム・フォン・ベルゲンが住んでいた。
ボナメスの城と村は最初はフルダの修道院が所有していたが、1304年ごろフルダの修道院にいる騎士なども多くなるとだんだんと分家が進み、フランクフルト東部に軍事的な要塞を造り、町としても早くから成り立っていったということらしい。by WIKIpedia
1476年から1480年にかけて城のタワーが造られた。だが1545年のシュマルカルデン戦争で城は焼失。その姿はもはや要塞としての役割を果たさなくなった。1721年には城の使われなくなった建物を改修し、新しい2階建ての建物が東側の濠のを埋め立てて建設された。
1787年に再度建物群は焼失し、1834年には土地だけが売りに出された。1911年にエドアルト・ペリッシャーが土地を買うと、この場所に家を建てて考古学的に城を採掘することができなくなってしまった。
でもフランクフルト文化局は1987年から1993年にかけて地下を調査しようとはしたが、アパートが基礎から崩れる可能性のためにマーキングしただけで終わってしまった。










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