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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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グリーニケ宮殿-Schloss Glienicke-
Schloss Glienicke
Schloss Glienicke
Schloss Glienicke


この宮殿は当初はベルリンの医師で評議員のヨハン・ヤコブ・ミロウが建てた豪壮な狩猟城館の近くにレンガ造りのカントリーハウスを1751年から17853年にかけて建てたのが始まり。しれは1764年に競売にかけられ、1771年にザクセンの伯爵のものになった。1786年にプロイセンの馬の貸し出し業をしていたカール・ハインリッヒ・アウグスト・グラフ・フォン・リンデナウが買った。
やがて彼は美しいカントリーハウスとして城の庭園を造っていくと、そこへナポレオンが攻め入ってきた。ナポレオンの前にリンデナウは資金困難になり、一時フランス軍のものになってしまった。やがてナポレオンも更なる東方戦線に連戦していくと、敗北が続きドイツからも撤退していった。そんな中城は市民病院になったり、被害にあった人々の避難場所になったりしたが、1810年にプロイセン首相のカール・アウグスト・グラフ・フォン・ハーデンベルクがこの領地を買い受けた。彼はここで英国風の庭園を造り、その傍らでフルーツを栽培したり、遊園地を作ったりしてそこに国王を招いたりした。しかし、ハーデンベルクの息子のハーデンベルク・レーベントロー伯爵はやはり派手な暮らしぶりに経済が逼迫してしまい、結局はプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世の息子のカール・フォン・プロイセンのための城とした。カールはイタリアスタイルにぞっこんで、この城もイタリア風の建物に建て替えた。やはりシンケルの設計によるもの。
建った城にはカールの好きな中世や古代のアンティークがたくさん集められた。そのコレクション熱は20年にも及んだが、四尾nysy耳鼻フリードリッヒ・カールの世代になるとしび付けが莫大なものとなり、どうしようもなくなって放置状態だったが、そのまた息子のフリードリッヒ・レオポルトが関心を示して城を博物館として使用した。
その後はいろいろ転々と使用され、ここは庭師の学校を置き、またヨーロッパの宮廷で雇われた庭師たちの博物館として2006年4月にオープンした。


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バベルスベルク城-Schloss Babelsberg-
Schloss Babelsberg
Schloss Babelsberg
Schloss Babelsberg
Schloss Babelsberg

この城はブランデンブルク州の州都ポツダムにある。
ここは後にヴィルヘルム1世が
妻のアウガスタ・フォン・ザクセン・ワイマールと息子への贈り物として計画された。
この城は当時イギリスで流行っていたゴシックリヴァイバル様式にすることになった。1835年から1849年にかけて設計に当たったのはカール・フリードリッヒ・シンケル、ルートヴィッヒ・バルシウス、ヨハン・ハインリッヒ・ストラックだった。
1833年にフリードリッヒ・ヴィルヘルム3世が亡くなると、皇位に着いたヴィルヘルム1世はフリードリッヒ・シンケルに最初計画を持ち込んだ。しかし、予てよりルートヴィッヒ・バルシウスに相談していたこともあって、彼は大体のアウトラインを絵にしていた。
そのスケッチにヴィルヘルム1世は古典的なスタイルやロマン主義の古典的なスタイルのそれぞれの理想像を融合させて、当時のドイツならではの国家的なシンボルにしようとした。
妻のアウガスタはイギリスのゴシックリバイバル様式に精通していて、その設計にいろいろと関与した。
そのために設計を受け持ったシンケルはオーガスタの細かい指示に適度なゴシック様式を取り入れようとしていたのに、「出来ない」と拒否した。それというのも皇帝がマナーハウス程度の資金しか調達していなかったからだった。
そこで大きな窓を持ったテラス部分にネオゴシック様式を取り入れ、そこにダイニングルームと茶室を持ってきて田舎の風景庭園を見ることの出来る建物の一部の設計が決まった。
1840年にヴィルヘルム1世の息子でまだ皇太子であったフリードリッヒ・ヴィルヘルム4世が結婚。まだまだ城の設計に時間がかかる様子だが、その翌年にシンケルが亡くなった。
その後を任されたバルシウスはアウグスタの希望を極力取り入れるように、シンケルの計画を一部変更した。最初に決まった部屋から西側にホールや子供たちのための部屋が設けられ、その一番端にゴシック様式の要とも言える巨大な塔を配置することにした。
その計画を残してバルシウスは1845年に亡くなった。
その後をストラックが主任となりアウガスタの好みを詳細に取り入れ、今のような形となり、1849年に設計しつつ建設が進められた結果やっとこさ完成した。
1862年にここでヴィルヘルム1世と外務大臣であり首相のビスマルクとの会談が持たれた。
1888年にヴィルヘルム1世が亡くなると、ここに住む後継者は居なかった。
1945年にはこの宮殿の家具は略奪に遭い、1953年には東ドイツの国家アカデミーの物となり。やがてポツダム大学の一部となった。
1970年にはドイツ先史博物館。1992年に皇帝の住まいだったことを物語る宮殿博物館となった。




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site2







ザクロウ宮殿-Schloss und Park Sacrow-
Schloss und Park Sacrow
Schloss und Park Sacrow
Schloss und Park Sacrow


ザクロウの始まりは14世紀に貴族の屋敷として建てられた。
1764年にスパンダウ要塞司令官がこの土地を買い、1773年にスウェーデンの陸軍中将のホルトが新しいバロック様式のマンションを建てた。そのマンションを建てるに際して樹齢千年の樫の木があり、今も天然記念物として残っている。1779年にはハインリッヒ・カール・デ・ラ・モット・フーケがこの城を買った。彼の息子は詩人で「ウンディーネ]の著作があるが、彼はザクロウ湖でその作品のインスピレーションを思い描いたのだろう。
1816年にベルリンの銀行家マグナスがこの城を所有した。彼は時々メンセルスゾーンの家族をここに招いた。そしてメンデルスゾーンはここで弦楽四重奏作品13番を創った。
1840年フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世がこの城を所有し、救い主教会(Heilandskirche)をルートヴィッヒ・バルシウスに建てさせた。またバルシウスはイタリアンスタイルの切り妻屋根の2階建ての別館を建てた。その北側のピーコック島に王の教会の庭園を造り、グリエニケ、バベルスベルク、ツェツィリーンホーフがそれぞれにひとつのラインを描いて配置される構図となる。王はプロイセン王国の終焉に際してこのザクロウの小さな邸宅に住んでいたのは余り知られていない。1918年のドイツ革命以後は財務大臣のアルベルト・セドクルムが週末の住まいとしていた。1922年から1934年11月までエーベルハルト・クランツと友達のゴッタルト・ザクセンベルクとその妻エマとその姉のネウハウスが住んでいた。
1938年に雑木林の中に放置されていた城をフリードリッヒ・アルパーズがバロック様式に再建した。
1945年にはこの土地は国のものとなり、国民衛兵によってナチスドイツに迫害された子供たちのための施設となった。1973年にはDDRの税関事務所となり、庭園はスニファ犬の訓練所として使われた・
1990年にドイツが統一されると、城はプロイセンの宮殿と庭園協会が所有することになり、クリストファー・レンの造った庭園を忠実に再現することにした。しかし、貧しさの中に喘いでいた東ドイツの市民に対して博物館建設よりも一時的な暖かい住まいが必要となり、城の中にある別館が彼らの住まいとして宛がわれた。計画は一時的に中断はしたものの、2003年には城として再建し、SPSGによって夏の美術館として使用することが決定した。また庭園にはカフェが設置され、市民に開放するとともに修復作業が持続的に成されていった。


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フィングストベルクのベルヴェデーレ-Belvedere auf dem Pfingstberg-
Belvedere auf dem Pfingstberg
Belvedere auf dem Pfingstberg
Belvedere auf dem Pfingstberg
Belvedere auf dem Pfingstberg
Belvedere auf dem Pfingstberg


最初、ここに城を造ろうとしたのはフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の1792年。ユダヤの丘といわれたこの場所に展望台を作ろうとしたが不動産価格が急激に高騰し、建設計画は実現しなかった。
しかし、当時の設計者ミヒャエル・フィリップ・ダニエル・ボウマンの図面は残され、フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世の時代、丁度世の中が中世への回顧を思わせるロマン主義の台頭により、1817年に計画は実行されようとした。
まずは丘を購入し、その土地の名前も「ユダヤの丘」では無くフィングストベルクと改名させた。そして王自らがスケッチを何度も何度も描き、イタリアンルネッサンスのヴィラをモデルに描いていった。最終的に1585年に建てられたカプラロラのカジノヴィラをモデルにしてみようとした。そして王はその実物を見るためにローマへと旅をした。完璧なスケッチを挙げるとそこにはパワフルなツインタワーのヴィラがあった。
建築家たちの面々はペルシウスにステューラー、そしてヘッセを招き、王のスケッチを元に城の設計はされた。
まずは正面の建設、それは1847年から1852年まで掛かった。25メートルのツインタワーとそこへと続く階段、塔と塔を繋げる回廊。その下には貯水池を配して水面にその壮大な建物を映す。新しい庭園には酪農をすることが出来る。
しかし、財政上の問題で1851年に始まったオランジュリー宮殿の建設のために Pfingstbergの建設は1852年に一時中断。オランジュリー宮殿完成後に再び着工するというとんでもなく王様は宮殿建設に没頭していた。
しかし1861年にフリードリッヒ・ヴィルヘルム4世は亡くなると、その計画はフリードリッヒ・アウグスト・ステューラーが1863年に完成させた。しかし庭園は結局第2次世界大戦時に完了させるほどの大掛かりなものだった。
1950年にベルリンの壁が出来ると、1961年にここは閉鎖されたまま暫くの眠りに付く。
1987年になるとポツダムの市民たちが、生い茂った草木の間から見えるベルヴェデーレの廃墟を何とかしようと立ち上がった。1990年にはPfingstberg協会が発足した。
やがて民間のスポンサーから財団にたくさんの寄付が寄せられ、またドイツ共和国となった時に国からの補助金がこの城に寄せられ、ヘルマン・レームツマ財団のヴェルナール・オットーがこの城の復元に多大な尽力をした。
1999年にポツダムとベルリンの宮殿群と公園群の一部として世界遺産に登録された。



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ツツィリーンホーフ宮殿-Schloss Cecilienhof-
Schloss Cecilienhof
Schloss Cecilienhof
Schloss Cecilienhof
Schloss Cecilienhof


ツェツィリーンホーフ宮殿はホーエンツォレルン王朝の最後に造られた宮殿。皇太子ヴィルヘルムが妻のセシル・フォン・メクレンブルク・シュヴェリーンのために1914年から1917年にかけて建てさせた宮殿。設計者のパウル・シュルツェ・ナウムブルクはイギリスチューダー様式を専門とする建築家だった。
そして日本人の一番関連のある出来事は1945年7月17日から8月2日にここでポルダム会談が行われ、連合国の交渉がもたれた。
聞いた話では沖縄・九州は中国の領土、東京はアメリカ、北海道はロシアが領土を分けると話していたとか。そのときの密約を原爆の威力で独り占めしたアメリカに対して、今更ながらにロシアは北方領土を(もう取り返しが付かない状態)、中国は沖縄を占領しようとしている。


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