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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ヒレンラード城-Kasteel Hillenraad-
Kasteel_Hillenraad.jpg
Kasteel Hillenraad1
Kasteel Hillenraad2
Kasteel Hillenraad3

リンブルク地方のルールモント市にあるスワルメンの街にある濠に囲まれた正方形の城。
スワルメンの街は1270年から1695年までGelre公国に属していた。15世紀にはこの城は公国の中心的な位置に有った。
オランダがハプスブルク帝国からの独立をする上でオレンジ公ウィリアムはヒレンラード城に本部を置き、その本部を統括したのがアーノルド・シェンクだった。
1695年スワルメンも街は markgraafschap(辺境伯領)アセルトに属した。
17世紀と18世紀に城は四方の塔を増築し、今の姿になった。

アーノルド・シェンクが亡くなった後、彼の妻のカタリナ・マリア・ファン・ヘンズブロックが一時的に城を所有したが、その後には彼女のいとこのウィレム・アドリアーン・ファン・ヘンスブロックが城を所有した。
Roermondse bisschop Filips Damiaan Lodewijk van Hoensbroeckは18世紀のマーズランド地区でこの城を音楽の中心地にした。
1909年に Franz Eugen von und zu Hoensbroechはメッテルニヒ家の娘と結婚。その際に城は華美な装飾で彩られ、またそのあとにこの城を受け継いだHerman Jozef Wolff-Metternichとその妻のVon Schall Riaucourが1922年に城を更に飾り立てた。そして1918年11月にはドイツ帝国皇太子のヴィルヘルムがこの城を訪問した。しかし、ここはオランダ。第一次世界大戦ではオランダは中立の立場をとっていたためハーグ条約の規定によりドイツ皇太子は国外へと連れ出された。



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オースト城-Kasteel Oost-
Kasteel Oost
Kasteel Oost
Kasteel Oost

1340年に要塞化された城がEysch家によって最初に建てられた。
1563年に裁判所はこの城がディルク・ファン・スペックハウベールスの娘ベアトリクス・ファン・ビーセンのものだと認めた。
一時はブラバント公国に編入されたがやがてリンブルフ南東の教区シン・オプ・ヘウルのアドリアンⅡ・デ・フルトのものになった。
1724年にマリア・カタリナ・デ・フルトはモリッツ・ヘクター・ファン・ハマースタイン男爵と出会い結婚。フルトが亡くなると、モリッツはアンナ・マリア・フォン・ザッツェンホーヘンと結婚。また男爵が亡くなると、ヴァルター・ニコラース・エルンスト・ヨゼフ・ローレンス・ファン・メッテコーヘン男爵と結婚。その娘のマリア・アンナ・カロリネマクシミリアネ・ファン・メッテコーヘンはフレドリック・フェリックス・エウゲネ・デ・ヴェルモント・デ・ブルマーニュ男爵と結婚した。
フランス革命が起るとここはフランスの領土となる。しかし、この城の所有権は護られ、ヴェルモント・デ・ブルマーニュ男爵家はドイツのプロイセン皇帝の侍従を務めるシュレーダー家と結婚した。
それなのにシュレーダーは拳銃で人を殺してしまった。
後に残った娘のアリダはメッテルニヒと結婚したが、彼らはドイツに住んでいた。
第2次世界大戦後はオランダの国のものとなり、1950年にフォルケンブルク・ホーテムの町に買収された。
18世紀の城は東のプライベートチャペルで、日曜、祝日にミサが行われている。 フランスの占領中に、礼拝堂には、リポジトリとフォルケンブルグの教会になった。 19世紀初期から長方形の中庭を擁した建物の周りに堀を囲ませた。
1830年から1840年にかけて今の城に復元された。 北側の建物は新古典主義様式に改装したので南側の改装は中止された。 西翼の建物は16世紀と17世紀の建設。 1830年東翼はプロイセンの協力の下に改装。
1996年に城を広範囲に復元され、この城は再び往時の面影を取り戻した。

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オーイェン城-Kasteel Ooijen-
Kasteel Ooijen recreatie
Kasteel Ooijen recreatie
Kasteel Ooijen

1326年にゴダルト・ラファエルトが領地を持つと1439年ティエリーのフェイ・ファン・ヴィルデンラーデがこの地を所有。1453年にセゲル・ファン・ブレクヒュイセンが1550年頃までこの地を所有。
1632年にレーヴェンマン家がこの地を所有すると、写真の城を建てた。(残骸です)
いろいろな所有者のものになりながら、1951年にヘルマン・ブレクヒュイゼンフォルストの手に渡った。彼はここをキャンプ地にし、その後子供たちのためのレクレーションセンターへと変貌させた。
城は親子で過ごすアパートメントにもなっている。

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ニールカンヌ城-Chateau Neercanne-
Chateau Neercanne
Chateau Neercanne
Chateau Neercanne

この城はマーストリヒトの軍司令官ダニエル・ヴルフ・ファン・ドフのレセプションハウスとして1698年に建てられた。この城の重要な客は時のロシア皇帝のピョートル大帝(彼は西ヨーロッパの華やかなバロック文化を吸収するべく旅行中だった)。1718年ダニエル・ヴルフ・ファン・ドフは亡くなる。
1747年にカレル・ファン・ヴァルデック皇太子はこの城をハプスブルクオーストリア・ハンガリー帝国のの軍のオランダでの宿泊所(将軍General以上の階級のみ)にした。
1839年(ベルギーがハプスブルク家の領土ではなくなり独立すると)この地はオランダの領土に再編され、城はクレール伯爵イグナシアス・デ・ティエルのものになった。
彼の孫、ティエル伯爵のルイーズ・オイフラジネ・マリア・ポスヴィックが最後の住人だった。
1947年にリンブルク景観財団に城を売却。城はとても劣悪な状態にあり、修繕には相当な費用がかかるだろうと言われた。
1955年オランダで唯一のテラスガーデンを持つ城はヴィールレのビール醸造所が経営のレストランを有して再建された。
1984年カミーユ・オーストベゲルホテルグループに参入しユネスコなどの協力の下、城は文化的な重要性を認められて保護されることとなった。1991年それを祝ってEUの加盟国のゲストを迎えてホステス役のベアトリクス女王が盛大なパーティーを開いた。



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モンフォール城-Kasteel Montfort-
Kasteel Montfort
Kasteel Montfort

1260年ハインリッヒⅢ・フォン・ヘルレによって建てられた城。
城の名前が建築主の名前でないが、当時この名前がはやっていたために命名したという説が有力。
もともとこの土地はリエージュの司教のものだった。しかし、リエージュの司教はローマ教皇のグレゴリウス10世からカソリック会から除名処分を受け、ハインリッヒ・フォン・ヘルレが正規軍を他と挙げてリエージュ司教のこの地に攻め入った。そして勝利の後にこの領地を所有することとなった。
その後、レイノート・ファン・ヘルレの時代に城は拡張された。リンブルフとヘルターランドをまたがる領地を保有した。しかし息子と父親との喧嘩のスエに父親は投獄されてしまい、レイナートⅡの親友のヴィレム・ファン・ホラントの手紙もむなしく6年後に投獄されたまま父親は息を引き取った。
100年戦争の際にヘルレはイギリス側に付き、フランスと戦争をし、城は要塞を好個なものにしたが破壊されてしまった。1685年に壊された一部の要塞が解体された。この地を治める帝国の執行官の住居が建てられ、18世紀までその住居はあったが、フランス革命軍の襲来と共に所有者は逃げて城はからっぽになった。
1837年ヤン・ヴィレム・ブルクホフがこの城を買った。要塞の残骸の隅にハンティングロッジを建てた。設計はピエール・クイペール。
1957年に城はファルケンブルク城財団の手に渡った。1961年に城は現在のモンフォール財団にわたり、劣悪な状態の狩猟ロッジの復元を2002年から取り掛かり、また残っている要塞の壁の保存。ワインセラーばども復元予定(?)

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