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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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Author:zamekzamek
貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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レーデ城-Burg Lede-
Burg Lede


1360年騎士のヨハン・シリンクによってロマネスク様式の城が建てられた。1583年バイエルンとプファルツの戦争で城は破壊された。1706年フィリッヒ家が壊れた城を買う。
1802年から1820年までプロイセンの国家のものになったが、ケルンのヘルスタット銀行で城は競売にかけられる。1904年にオットー・ファインリングによりイギリスのバルモラル城をモデルにした小さな城を建てた。1930年ファインリング伯爵夫人ベルゲ・フォン・トリップははこの城をディリンジャー製鉄所に売り渡した。
第2次大戦後、この城は一時イギリスのキャリントン卿(後の外務大臣)の地区司令官の館として利用された。

ライン中流域はこれにて終了!!。ノルトライン・ウェストファーレン州にたどり着いたことなので、この後はその州を重点的に…。
ドイツはマイスターが多いのか専門的な説明をしてくれるサイトが多いこと。
それに比べてフランスやイタリアはもったいぶりすぎだ~~~。

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ドラッヒェンブルク城-schloss drachenburg-
schloss drachenburg
schloss drachenburg
schloss drachenburg
schloss drachenburg
schloss drachenburg
schloss drachenburg
schloss drachenburg


ボンの銀行家ステファン・フォン・サルテのプライベートヴィラとして1881年に建てられた城。
彼はパリ証券取引所に流星のごとく現れたフェルディナン・ド・レセップの部下として遣われていた。そして彼はボンに帰ってくると、フェルディナンの手法と男爵という地位に肖って大きく設けることができた。
デュッセルドルフの建築家のベルンハルト・ツェスハウスとレオ・フォン・アベマに依頼して城をステファンの故郷のボン近郊のドラッヒェンブルクの街に建てた。しかしステファンはこの城に住むことはなかった。彼は1902年にパリで亡くなっている。
この城のすばらしさは19の建築様式の集合体であること。元はゴシック様式が基本だが随所に各時代の代表的な様式を取り入れている。
ステファンの死後、甥のヤコブ・ヒュベルト・ビーセンバッハが95万マルクで城を購入。城を維持するために彼は城のインテリア部分を一般公開した。そして数々の美術品の購入のためにお土産やさんやレストランを併設。またホテルとしても活用され、城の地下室にはゲストへのサービスを提供するエリアができていった。
やがてこの城にリヒャルト・ワーグナーが招かれる。彼の好きな北欧神話のインテリアが新たに施され、まるでノイシュヴァンスタイン城にの小型版の部屋のようになっていった。
しかし、1910年にビーセンバッハは城を売りに出す。やがて城はケルンの実業化ヘルマン・フロールのものとなる。
1931年には城は一転してカソリック教会の寄宿舎学校になった。自然と質素さを重んじる寄宿学校はそれまでの華やかな城の風景とはまるで雰囲気が違っていた。そして、そこへナティスドイツが乗り込むとこの城はナチ党の労働戦線のものになり、アドルフ・ヒトラー学校となった。
第2次大戦では城は破壊され、しばらくの間は荒廃したままの姿で存在したがパウル・スピナッチの50万ドルにも及ぶ資金援助があり、城は今のような姿へと再建されることになった。
それからは少しずつ人の手により、寄付により城はだんだんとその美しい姿を取り戻していった。



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ドラッフェンフェルズ城-Burg Drachenfels-
Burg Drachenfels
Burg Drachenfels

1140年ケルン大司教のアルノルト1世がここに城を造ることを計画、1167年に完成した。
この地はケルン大聖堂にも用いた建設資材の岩を産出し、経済的にとても裕福だった。そのためだったのか1493年にクラウス・フォン・ドラッヒェンフェルズはクックステインに住むハインリッヒに城のニーベルンゲンホールで殺されてしまう。そこは十字のしるしがうってある。
1638年にスウェーデン軍がこの城を占領。その後すぐにケルン大司教はスペイン人になり、この城を奪還。ケルン大聖堂を大きくするために石を取り出す作業に取り掛かった。
しかし、1807年ナポレオンはこの城を完全に破壊。その後プロイセンがこの地を買った。
やがてここにハインリッヒ・ハイネが訪れると「ドラッヒェンフェルズの夜」を著書として出した。
ここからの眺望はすばらしく、観光客がいっぱい来ている。



site







レーヴェンブルク(ライオン城)-Löwenburg -
Löwenburg
Löwenburg
Löwenburg


Es nimmt zuvor mich auf die Einsamkeit"これは私の前にしている孤独
Der hochgewölbten grünen Buchenhallen緑の図書ホールhochgewölbten
Mit ihren Bogen, schlank und hoch und weit,彼女の弓で、赤身と背の高い、幅、
Drein goldig grün der Sonne Lichter fallen; Dreiner黄金の緑の光は太陽です。
Das Lied tönt hier gleichwie in Tempeln fort,この曲と同様に、ここの寺院の継続音
Man hört die Tritte weithin wiederschallen!をもう一度よく蹴り、リングを聞く!
Wie Riesenmale liegen hier und dort巨大回ここにどのようにしており、
Bemooste Felsenblöcke aufgeschichtet,コケに覆われた岩aufgeschichtetブロック、
Und sinnend staunt der Geist an jedem Ortと、各場所の精神に驚くsinnend
Wie groß und prächtig rings Natur gedichtet.どのくらいの素晴らしい自然の密封リング。


Es ist die Löwenburg, die ich erstieg,これは、 Löwenburgはerstiegです。
Die stehts das liebste Ziel von meinen Gängen;目標は常に私の静脈のお気に入りです。
Ob allen Bergen feiert sie den Siegすべての山かどうかが、勝利を祝って
Mit Wäldern, Wiesenplätzen, Felsenhängen.森林、草原サイト、岩の斜面。
Auf dem gebrochnen Thurme, der sie schmückt彼女が飾るのgebrochnenサームで、
Hoch über Buchenwipfeln, Vogelsängen,高Buchenwipfeln 、 Vogelsängenの上、
Setz ich mich hin, im tiefsten Geist entzückt.最も深い心の中で私を入れてチャームド〜魔女3姉妹。
Tief unter mir des Laubwerks grüne Wogen,緑の葉の中には私の下に深波、
Und Thal und Ebnen, fruchtbar, reich, beglückt;とサールやレベリング、肥沃な、豊かで幸せな;
Doch über mir von Adlern nur umflogen!"ワシのumflogenしかし、私だけ! "

-ヴォルフガンク・ミューラー・フォン・ケーニッヒスヴィンターの詩



" 7つの山を目立た
empor am Niederrheine.ラインを下げる。
Es winden grüne Reben sich緑のつるが巻きしている
um graue Felsgesteine …灰色の岩に...

Wer mag von euch der schönste sein,誰が最も美しいされることがありますが、
ihr mächtigen Gesellen?彼女の力強い仲間ですか?
Hell spiegelt sich der Drachensteinドラゴンストーン、光が反射
in silberhellen Wellen.銀色の波。

Sankt Peter liebt's in Frömmigkeitサンピエトロ愛信心深さに
mit Glockenhaut zu reden.ベルとの肌の話。
Wem wird denn wohl der Kranz geweiht?おそらくこれは、リングの運命は誰ですか?
Fürwahr ein Kranz für Jeden.それぞれの実際の花輪。

Doch wenn ihr nach der Größe fragt,しかし、それはサイズのため、要求
aus stolzen Buchenhallen本の誇りホール
die Felsenhäupter überragt岩の上に頭を
die Löwenburg vor allen!“すべてに対して、ライオンの城! "

-エミール・リッターハウスの詩



輝く時間の中ではFrühjahrswonn
eines Trosses aus wackren Knaben wackren少年たちからの大綱
klommen hoch aus schönem Bonn高い罰金klommenボン
um sich des Gipfel klarer Sicht zu labenサミットのリフレッシュになるクリアな視界を


Sie trugen schwer an Bräues Last彼らは最終Braeuer大きく貢献
doch unverzagt des Durstes Drangのどの渇きがunshrinkingのどの渇き
gingen sie mit milder Hast急いでいたが軽度
hinauf den steinigen Hangした岩の斜面を


Angekommen an des Gipfels Zinneサミット頂点に到着
genossen Aussicht und des Lastes Trankビューと飲み物を楽しんで負荷
der Heimweg durch des Regens Zank雨を介して自宅Zank
am Fuße des Berges zerinne zerinneは山のふもとに

-アドリアン・ヨハネス・デム・ホールデンの詩


1247年にヨハン、ハインリッヒ、シモン、エバーハルトの4兄弟が保有する領地として記録に残っている。
1344年にデ^ートリッヒⅢ・フォン・ローエン国を統治していた。1448年ローエン家の女相続人とヨハン・フォン・ナッサウ・ザールブリュッケンが結婚、城は大きくすることができるようになった(まっ財政的に困窮していたんでしょう)

しかし1882年にこの城は解体されています。なぜに?プロイセンのお方はここを気に入らなかったのか?中世からの古城は鉄道網開通で観光資源だっただろうに。余程不便なところだったのだろうか?
でも、今はこの地はドイツ有数のハイキングコースなんだけど。


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フィルツェルト城-Burg Vilzelt-
Burg_Vilzelt
Burg_Vilzelt
Burg_Vilzelt

フィルツェルト城が建てられた年代は不明。1290年には領地の記録に残っているが、それよりもさかのぼる年代に領地をほゆうしていたのだろう。
14世紀初頭フィルツェルト家はケルンの司教職にあり、ドイツ貴族のオイトゲンバッハ(アスバッハ家の祖先)の一員になっている。
1449年にはヴィルヘルム・フォン・ネッセルローデ・エーレンショフェンの娘マリアとアダム・フォン・オイトゲンバッハが結婚し彼らが住んでいたが、城はケルン選帝侯の抵当権がつけられていた。
その後、ネッセルローデ家が455年間保有したが、1953年にネッセルローデ家最後の当初マリア・ルイーゼ・アガテがマルクヴァルト・フォン・ソベックヴェルダーと結婚したために、ネッセルローデ家の所有はここで終わったと言うことに・・・。
でも苗字が変わっただけで血筋の通った人が住むんだからいいと思うのだが。
ヨーロッパにおいては今なおサリカ法の名残で男子優勢の貴族の家柄を重んじるのだろうか?











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