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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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選帝侯
いろいろ調べているのもなんなので、ここに転載してしまいましたが、そもそもの神聖ローマ帝国の選帝侯の意義がわからなくなってしまってのことです。
自分なりの後学のために記しました。

選帝侯の一覧

金印勅書で指定された7選帝侯

聖界諸侯
マインツ大司教→レーゲンスブルク大司教
ドイツ大法官。1356年の金印勅書で皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、以後 Erzkanzler durch Germanien は「ドイツ大法官」から「神聖ローマ帝国の宰相」を指す語となった。1803年にレーゲンスブルク大司教と改称。
トリーア大司教(トリール大司教とも)
ガリア=ブルゴーニュ大法官。1801年ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。
ケルン大司教
イタリア大法官。15世紀までは、選出された国王をアーヘンで戴冠した(以降はマインツ大司教が戴冠)。1801年ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。

世俗諸侯
ボヘミア(ベーメン)王
献酌侍従長(シェンク)。ボヘミア王自身国王選挙によって選出される王であったが、1526年にフェルディナント1世が王となり、1544年に世襲の王国とした。このため、以降ハプスブルク家に保有され(ただし三十年戦争およびオーストリア継承戦争の際に一時ハプスブルク家が王位から追われたことがある)、1806年の帝国消滅を迎えた。
ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯、ファルツ伯とも)→バイエルン大公
シュヴァーベン、ライン川沿岸地域における国王代理。家令(トゥルッフゼス、ダピファー)。1623年、三十年戦争に敗れてドイツを追われ、遠い縁戚にあたるバイエルン公に選帝侯位を奪われた。1648年、ヴェストファーレン条約の結果、戦争以前にライン宮中伯の保持していた選帝侯位はバイエルン公のものとなり、ライン宮中伯には第8の選帝侯の地位を与えられた。1777年にバイエルン選帝侯のヴィッテルスバッハ家が断絶すると、カール4世フィリップ・テオドールはバイエルン選帝侯位をも継承した。これによりバイエルンとライン宮中伯の両ヴィッテルスバッハ家は統合され、ヴェストファーレン条約の規定によりライン宮中伯としての選帝侯位は消滅した。以降、1806年の帝国消滅までバイエルン公が保持した。
ザクセン公(ザクセン・ヴィッテンベルク公)
ザクセン法地域における国王代理。侍従武官(マーシャル)。1697年から1763年までポーランド王を兼ねた。
ブランデンブルク辺境伯
財務侍従官(ケメレール、カメラリウス。)1618年よりプロイセン公国と同君連合、1701年にプロイセン公は王に昇格した。

金印勅書以降に選帝権を与えられた諸侯

すべて世俗諸侯である。

ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯)
1623年に選帝権を奪われたが、1648年にヴェストファーレン条約で選帝権を回復した。ただしこの選帝権は新設のものと扱われ、しかもバイエルン公と同君連合した時点で失われると定められていた。1777年、上記のバイエルンとの同君連合により消滅した。
ブラウンシュヴァイク=カーレンベルク公(ハノーファー選帝侯)
1692年に選帝権を獲得した。1714年以降イギリス王位を保持した。
バーデン辺境伯
1803年に選帝権獲得。1806年に神聖ローマ帝国が消滅したため、以下の4諸侯が選帝権を行使することはなかった。
ヴュルテンベルク公
1803年に選帝権を獲得。
ヘッセン=カッセル方伯
1803年に選帝権を獲得。なお、1806年に神聖ローマ帝国が消滅するため選帝侯という地位も失われたが、ヘッセン=カッセルのみはヘッセン=ダルムシュタット大公よりも格上であることを示すため、1866年にプロイセンに併合されるまでヘッセン選帝侯の称号を保持し続けた。
ザルツブルク公
もとザルツブルク大司教が選帝権をもったが、1803年に世俗化され、ハプスブルク家のトスカーナ大公フェルディナント3世が選帝侯となった。


選帝侯の意義
選帝侯は次第に力をつけ、ホーエンシュタウフェン朝の血統が絶えた後は、小貴族をドイツ王に据えて自らの勢力を安定させようとしたが、結果としてプロヴァンス伯やボヘミア王(とりわけオタカル2世)のドイツ国内での勢力拡大を押しとどめるべき存在が居ない、という問題が浮上した。特にボヘミア王のオーストリアやシュタイアーマルクの領有権獲得はかなり強引なものであった。

これを押しとどめるべくドイツ王に選ばれたハプスブルク家は次第に力をつけたが、またドイツにおける宗教分裂やオスマン帝国、フランスの勢力拡大もあって、帝国の安定のためには一定の力を持った皇帝が必要であった。結果として選帝侯は事実上のハプスブルク家の帝位世襲を容認しながら、その権力を行使して皇帝権拡大を防止するという方策を選択した。

帝国が実質的にはヴェストファーレン条約で死んだと言われながらもそののち150年にわたって存続し、しかもその間フランスなどの脅威にさらされながらも小国の寄せ集めであり続け、しかも宗教戦争が三十年戦争を最後にまったく発生しなかったのは、選帝侯たちの慎重な綱渡りの結果なのである。


wiki

詳しくドイツの諸侯領地を記したサイト



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神聖ローマ帝国・ドイツ帝国称号
皇帝:Kaiser
Kaiserin
ヨーロッパにおける皇帝は、理念上は古代ローマ皇帝の継承者のこと。よって、「原則として」皇帝を名乗れるのは西ローマ皇帝を継承する神聖ローマ皇帝と東ローマ皇帝を継承するロシア皇帝の2人のみ。ナポレオンの登場以降はこの原則が崩壊した。

王:König
Königin
一民族の統治者の最高位。理念上は皇帝の下位におかれるが、事実上は対等な力を持つ。

大公:Erzherzog
Erzherzogin
オーストリア公ルドルフ4世が「捏造」し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によって1453年に帝国法となった称号(非公式にはエルンスト鉄公が1414年より使用)。ハプスブルク家の成員のみに与えられる。

大公:Großherzog
Großherzogin
王と公の間の称号で、ハプスブルク家以外の大公はすべてこのスペル。ドイツでは「1806年以降」から使われるようになった。

選帝侯:Kurfürst
神聖ローマ皇帝を決定する投票権を持った聖俗諸侯。投票権についての称号であり、実際の地位とは関係はない。よって、選帝「侯」といっても実際の地位は王、公、辺境伯、大司教などである。

公:Prinz
Prinzessin
「親王」という訳もある。ただし、王族でない諸侯にもPrinceを名乗るものがあるため、このサイトでは暫定的に「公」で統一している。日本語に適当な訳がない典型例。

公:Herzog
Herzogin
「大公」とする書籍もある。ただし、本来の「大公」と区別できなくなるため、このサイトでは厳密に「公」を使用している。ローマ帝政期の軍事官職に由来する最も古い爵位の1つ。なお、イングランドの「公」はフランク由来のものではない。

侯:Fürst
Fürstin
公と伯の間の爵位として、後に新設された称号。「辺境伯」に由来する。15、6世紀ごろまでは貴族全体を「Fürst」と呼んだ。

辺境伯:Markgraf
Markgräfin
帝国辺境の統治を任された伯。辺境防備のために通常の伯よりも強い権限が与えられ、地位も高かった。フランク王国時代からの称号。

方伯:Landgraf
Landgräfin
ドイツの各部族の長を帝国諸侯として承認したもの。1806年に廃止された。

宮中伯:Pfalzgraf
Pfalzgräfin
「帝領伯」とする例もある。皇帝の司法代理官で、その中のライン宮中伯は後に一般名詞化し、「プファルツ宮中伯」(プファルツ選帝侯)と呼ばれるようになった。

伯:Graf
Gräfin
大陸の伯は、ローマ帝政期の5世紀ごろ地方支配の全権を付与されて配置された役人(comes)を起源とする。comesは都市を拠点に周辺地域を支配し、これを都市伯(comes civitatis)と呼ぶ。イングランドのEarlのみ起源が異なる。

城伯:Burggraf
Burggräfin
帝国直轄および諸侯領の城主。

子爵:Vizegraf
Vizegräfin
「vis」(副)+「Count」(伯)、つまり伯の補佐、補助を起源とする爵位。

男爵:Freiherr
Freiherrin

騎士:Ritter


またローマ教会の称号
教皇:Papa ローマ・カトリックの最高位。
大司教:Erzbischof 旧教は「大司教」、新教は「大主教」の訳を使う。
司教;Bischof 旧教は「司教」、新教は「主教」の訳を使う。
枢機卿:Kardinal ローマ教皇の最高顧問。教会行政の補佐を行う。ローマ教皇の候補でもある。
修道院長:Abt
Äbtissin

参考までにこちらからの抜粋です。