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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ベットステイン城-Schloss Böttstein-
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Schloss Bouml;ttstein2
Schloss Bouml;ttstein

城はスイスアールガウ州ベットステインの郊外に位置している。
11世紀から13世紀にかけてベットステインの家族が住んでいた。1218年Rheinfeldenの騎士としてルトルド・フォン・ベットステインは息子のヨハネスと一緒にバックハイン(ボイゲン)の教会に開墾した森林を担保に借金をして城を建てた。ボイゲンの教会はこの地の領主をベットステイン家のものと了承し、家族の地位をHerren von Tiefensteinとした。その家族のヒューゴ1世はマチルダという娘と結婚。1239年城はJohannitern in Bubikonに売られた。
1606年にヨハン・ペーター・フォン・ロールと騎士のハンス・ヴァルター・フォン・ロールの仲の良い兄弟はセントステファンズオルデンの騎士ユンカー・カール・エマヌエル・フォン・ロールに1800Guldenでベットステインの村と城を売却した。ロール家は1615年から1617年に新しく住居とチャペルを建てた。派手な生活をしたロール家の人たち。それは貧乏への道でもあった。1600年当初の財産価値=574000Guldenも1674年には35000Guldenと激減した。ということで領地と城はウリの町のシュミット家に売られてしまった。
シュミット家はロール家とは打って変わって町の人々を大事にし、健康状態や生活の苦しさを和らげるために尽くしたために町の者たちに慕われた。そして城で働くことは町の人々にとってのステータスであり、唯一の稼ぎ場所でもあった。町の者は年間30~40人城で働いた。
ヨゼフ・フォン・シュミットは農業改革に努め、町の農民たちは彼を「キャプテンシュミット」と呼んだ。
当時の牛の管理方法に変革を与え、ベットステインの町の牛は増えていった。しかし、近隣の町の領主たちは彼の方法に冷たい目で見ていた。しかし、ふたを開けて驚き、ヨゼフの方法を真似るものが出てくるようになった。
またスイスカソリック最高評議会の議員でスイス国会議員でもあったカール・フォン・シュミットもこの城で生まれた。彼はスイスの修道院廃止議案に反対した人物。スイスは今でも修道院はたくさんあります。


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ビバーステイン城-Schloss Biberstein-
Schloss Biberstein2
Schloss Biberstein1
Schloss Biberstein


城はアーレ川の断崖の上にあり、西側のテラスや壁は濠に面している。二つの尖塔にはさまれたアーチ状の城門へ渡すための10メートルの長さの跳ね橋があり、城門を入ってすぐに納屋がある。城の母屋の形はそれに応じて八角形の不規則な形をなし、屋根は何度かの火事によって焼け、最新の寄棟造りとなり、地下と二階などに見られる古いものは後期ゴシック様式の造りになっている。また、エントランスホールのゴシック様式の柱から伸びる天井への曲線の交差する様はまるで星々が天井にあるかのような風景である。


城は13世紀ハブスブルク-ラウフェン伯爵によって建てられた。
濠に囲まれた巨大な城の最初はBibersteinという名前ではなかった。
1335年に城と町をハブスブルク家はキリングラウの聖ヨハネ騎士団に売却した。1499年のシュバーベン戦争での勝利でベルン軍が占拠した。
1527年ベルン都市国家の命令でこの城に住んでいた町を治める廷吏であり、城主のHerrschaft Bibersteinは城主と廷吏の役割どちらかを選ばなければならなかった。(ベルンの貴族でさえ特例はなく重複した役割は認められなかった)そのため代表でもあったHerrschaft Bibersteinの所属した聖ヨハネ騎士団はこの城をベルン都市国家に売り渡さなければならなくなった。(8年後)1587年にこの城は火事で焼失、その時ここで働いていた女性たちは逃げ遅れて死んでしまった。1670年に焼けた一階の補修をするために上の階から徐々に城の模様が復元されていった。1784年再び火事。その時に城をアーラウ州は焼けた屋根の補修と損害額を迅速に割り出し施工した。
1804年に城はアーラウ州が管理するようになると、城は一時住民のためのアパートとなった。その後、1835年にハインリッヒ・チョッケによる地域の学校として使われた。1889年には教育支援施設の元祖的なものが創設されてこの城に本部を置いた。
1984年に屋根が燃えた。(補修はしたでしょう)1987年には精神に複雑な問題をもつ人々の職業訓練センターとして「Stiftung Schloss Biberstein」が創設された。


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アウエンステイン城-Schloss Auenstein-
schloss auenstein


城は13世紀にゴーヴェンステイン家によって建てられ、1307年にリナッハ家の手に渡った。リナッハ家はハブスブルク家と同盟関係にあったが1389年にベルン軍に襲撃されて、城は一階部分を火事で燃やしてしまった。その後建てなおすことなく廃墟のまま現在まで続く。
城はアウエンステインの村を伴い、リナッハ家は住めない建物に数回手を加えたが、一階部分を石積みで補強した程度。1465年にアルブレヒト・フォン・リナッハはルツェルンのハインリッヒ・ハスフルターに土地を売った。1487年にはハンス・ルドルフ・フォン・ルテルナウの手に渡った。その4年後にはミュリネン家に売却された。彼らは近くにカステイン城を売ってこの城を所有した。1648年に将軍のヨハン・ルートヴィッヒ・フォン・エルラッハがこの土地を買うと、彼のベルンに住む子孫が1732年に城を売った。
1803年にはこの城はアールガウ州の所有となった。1858年城は民間人に売りに出され、1928年にはフラットな床とキッチンが増築され少し大きくなった。
今は個人所有のお城です。




site







アルテンブルク城-Schlösschen Altenburg-
schloss aitenburg
schloss aitenburg2
schloss aitenburg1


ローマ帝国の時代、ヴァレンティヌス1世が370年頃アーレ川のほとりに三つの砦を築いた。川はここで急に曲がり岩の上に砦を造るには防衛上格好の地だった。ドナウ、ライン、イラー、リムスなどの川の源流にも近く、出土したコインにもその様子が窺えた。しかし、401年から406年ころに砦は放棄されてしまった。
10世紀後半ここにアルザスの貴族がその地位を捨ててこの地に入った。Lanzelinという名の貴族はローマ教皇の命によりこの地に小さな城を建て、1020年には息子のラドボットがハブスブルクの城から3キロほどの所に Wülpelsbergの砦を造った。数10年後その砦と城はハブスブルク家のものとなり、そこからハブスブルクの忠実な家臣としてエフィンガー・フォン・ヴィルデックと名前を変えた。
1397年にハブスブルク家が創設したKloster Königsfeldenがこの城を管理運営し、1415年にはベルン都市国家のアールガウ州が管理した。
1938年にPro Vindonissa und die Aargauische Historische Gesellschaftがこの城を所有した。
今はユースホステル

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アールブルク要塞-Festung Aarburg-
Festung Aarburg1
Festung Aarburg4
Festung Aarburg2
Festung Aarburg


この城の築城年代は解かっていない。しかし、ビューロンの町に1200年頃建設されたであろう推測が一般的である。そして13世紀ごろからここを住まいとした者にFrohburg伯爵の地位が授けられた。アーレ川を通る船への徴税や軍事的な守護の役割を世俗的に行われていた。またその管理地域はZofingenの市や周辺の町に及び上級判決が行われ、違反した者には死罪も免れなかった。
1299年Frohburgはこの城と領域の権利をハブスブルク家に売り渡した。1330年にKriech家がハブスブルク家の家臣として住むようになった。
1415年4月20日に城はベルン軍に包囲され陥落した。1416年からベルン軍はここに宮廷や裁判所を置き、ベルンアールガウの人間が城の機能の全体を管理した。といってベルンの貴族や聖職者に特権を持たせなかった。Schenkenberg (1460)、 Biberstein (1499) ツォフィンゲン (1528)、 K醇rnigsfelden (1528)とKasteln ( 1732) と年代を追って周辺の町を巻き込んで城の管轄区域を増やしていった。
そうやって徴税区域が増えると城も大きくなり1470年に城は宮殿を持った。1534年から1535年にも。また1621年と1659年から1673年にはバロック式の構造をもった宮殿が建てられた。
ベルン都市国家はチューリッヒも含めてプロテスタントを保護した。結果、ドイツ・オーストリア、フランスとのカソリック教国と戦わなければならなかった。
1666年からたびたび城は攻められ占領されたリしたために要塞化していった。そのためにベルン軍の駐屯地となり、司令官が城を治める地域の知事にもなった。その後は要塞は刑務所として使われた。もっとも有名な囚人は Jacques-Barthélemy Micheli du Crestだった。1798年3月10日にフランス軍がこの城を占領していた。しかし、ベルン軍が押し寄せるとなにも戦わずにこの城を明け渡した。その時に逃げ遅れてつかまった。
1804年城はアールガウの州が城を管理することとなった。1826年に刑務所として使われるまで荒れ果てたバラックだった。やがて1864年まで刑務所から兵舎へと変換されていった。
1891年州議会は城を少年犯罪者や非行少年のための更生施設にすることを決定し、1893年に改築された城にそれはオープンした。スイスの中で初めて子供に対する義務教育を施す施設ができたという出来事であった。1917年その施設は拡張され、その教育の中身は軍隊式の秩序と規律、そして悪さをした者には罰を与えるという厳しいものだった。1930年頃になると統治哲学による教育改革が行われた。
戦後1946年から1959年にかけて「昔の教育はいかん」ということでシステムを全面的に見直され、1982年から1988年にかけても第2回システム全面改造がされた。時代は目まぐるしく変化する現代に対応するため1989年からいろいろなテーマにそったカリキュラムをおこなう青少年ホームとなった。




Festung(@_@;)Jugendheim
Cantonal(;一_一) Youth-home Aarburg










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