FC2ブログ
宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

プロフィール

zamekzamek

Author:zamekzamek
貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


現在の時刻

月別アーカイブ

分類

検索フォーム

最新記事

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





Koeth-Wanscheidsches Schloss
Koeth-Wanscheidsches Schloss3
Koeth-Wanscheidsches Schloss2
Koeth-Wanscheidsches Schloss1


この城はディルムステインの北西端にあり、歴史的な村のオーべルドルフにある。
北東側の守衛詰め所は東翼の側面に道路と接し、その南の母屋を挟んで中庭を形成している。
この城は18世紀に中ごろまでバーデンダルラッハの役人のWolfgang Wilhelm von Rießmannのものだった。ファルツ継承戦争(1688-1697)で城は完全に消失すると、1715~1718年にかけて木材によって再建された城となった。しかし、1770年にプファルツの役人のGeorg August Heinrich von Kinkelに渡ったが数年するとフランス革命軍がこの地に押し寄せて、城と土地をフランス革命軍が接収すると競売にかけられた。しかしGeorg August Heinrich von Kinkelの弟のHeinrich August von Kinkelはオランダの大使をしていたために、フランス革命軍のとった行動は無効だとして外交特権を使用して取り戻した。
1802年には Joseph von Camuziがこの城を所有し、その息子で1864年かエア1874年までディルムステインの市長をしたギデオンが城を継承した。
20世紀になると城はオーベルドルフの村のものになり、第2次世界大戦後再建されると、様々な用途に使用される施設となった。




スポンサーサイト




ボレンドルフ城-Burg Bollendorf-
Burg Bollendorf
Burg Bollendorf2
Burg Bollendorf1


城の起源は定かではないが716年時点でエヒテルナッハ修道院の所有だった。
1619年にペーター・リヒャルト修道院長が城の南西部分に階段を擁した円塔が建てられ、その階段は全てのフロアーに通じるようになった。中世の城の面影は城壁のみ。城は城壁に沿ってループ状の形になっている。1739年にグレゴリウス・ショウペン修道院長がバロック様式の城に造り変え、1776年に完成した。城のホールや騎士の間は昔のままに保たれている。
今はホテルとして運営されている。


hotelsite







アルトライニンゲン城-Burg Altleiningen-
Burg Altleiningen
Burg Altleiningen1
Burg Altleiningen2
Burg Altleiningen14


この城は北東に5㎞離れたノイライニンゲンと同じフランク貴族のライニンゲン家の領土だった。
城は巨大な要塞でエルニッヒ1世とエルニッヒ2世によって1100年から1110年にかけて建てられた。城の平面的な間取りは複雑で3角形の平面が続くといきなり盛り上がった造りになっている。城の西側には昔の遺跡が残っており、城の門には跳ね橋がかけられていた形跡がある。それは山の中に独自に濠を巡らせて城の周りを守っていたのだろう。エルニッヒ2世は南東2㎞の場所にKloster Höningenを造った。
1525年ドイツ農民戦争が起こると城は破壊された。その後クノ2世、ルートヴィッヒ、ヨハン・カジミアのライニンゲン家の者によって城はルネッサンス様式に建て替えられた。それは領地の農民を借り出しての強制労働だった。
1600年に城の堀に水を流すために20基の井戸が岩をくりぬいて掘られた。それは今考えると驚き。岩をくりぬくのにどんな人がどうやってと考えると途方もない尽力だったんだろう。
1690年にフランスルイ14世の軍隊が押し寄せると、城はまたしても破壊されてしまった。またライニンゲン家の者はこの城を放棄した。
19世紀になると近代的な建築のための採石場と化していた。それをバイエルン政府は禁止した。なぜなら1933年までこの城はライニンゲン家(Leiningen-Westerburg-Altleiningen家)の所有権が残っていることからだった。その後、この城は Landkreis Frankenthalが所有することになった。
1962年にここは国定公園となり、1968年には城の東側にユースホステルが建てられ、1998年から2000年にかけて補修された。
1980年から Bund Deutscher Amateurtheaterによる演劇が夏に催され、歴史的な中世騎士物語やモダンなものも演じられる。
またこの城の地下にはドイツコウモリが生息しているために保護され、そこは立ち入り禁止となっている。


official







フリーデヴァルト城-Schloss Friedewald-
Schloss Friedewald
Schloss Friedewald2
Schloss Friedewald1
Schloss Friedewald3
Schloss Friedewald4


この都市はLandkreis Altenkirchen (Westerwald)にあり、ルートヴィッヒ・デム・バイエルンによってフランクフルト・アム・マインの都市機能を小さくしたように造られた。町の中心にはルネッサンス様式のファサードを持つ城が構えている。
この城を中心とした街を治めたのはサイン家、それも14世紀だけの治世だった。中世の城はヴェスターヴァルト国家とダーデンの町が主権を持っていた。そこにゴットフリート・フォン・サインが帝国官吏として、1324年にこの地域を統治した。城はその時ハインリッヒ・フォン・サインによってルネッサンス様式の城に建て替えられた。
30年戦争になると城は町や住民を守る砦となり、1671年には帝国郡官吏サイン・アルテンキルヘン家の領地となった。
1885年に城はプロイセンの官吏Alexander Graf von Hachenburgがこそ城を買った。実は彼はサイン・ヴィトゲンスタイン家の出身者。城は再び改築された。10年後に正確に城はAlexander Graf von Hachenburgのものになり、もう一度城に手を加えた。Georg Dehioはこの城を見て「ein besonders markantes Beispiel deutscher Fürstenschlösser des Manierismus」(ドイツの王侯貴族の中の城でマニエリスムの顕著な例だ)と言った。
1912年オットー・フォン・サイン・ヴィトゲンスタイン・ベルルブルクは城を45万マルクで売却した。
1949年からEvangelischen Sozialakademie Friedewald(プロテスタント教団)によって城は使われているが、この城で結婚式を挙げたいという人が2004年あたりから多くなったために教会はホテルも併設するようになった。


official







フロイスブルク城-Burg Freusburg-
Burg Freusburg
Burg Freusburg1
Burg Freusburg2


この城の土地の名前は913年当時「Fruodeesbraderofanc」となっていた。
1100年頃に最初の城は建った。城の名前の持ち主になったのは1247年頃、そして新しい城が建てられた。1580年ハインリッヒ・フォン・サインが城を改築。1896年にプロイセン帝国の財務省森林管理局のものとなり、管理運営されていた。
1928年からユースホステルとして使用されていたが傷みがひどくなり、1986年10月、当時のドイツ大統領Richard von Weizsäckerの肝入りで完全な改修作業がなされ、豪華なユースホステルと生まれ変わった。
今では年間60000人も訪れるユースホステルとして、ドイツでも一番人気のところとなっている。
フロイスブルクの眼下に広がる森林はジーゲル渓谷となっており、その中には風車(昔は粉ひき小屋だったのが産業革命時に電力を少なからず供給する発電所となった。今では歴史的建造物)のある「Freusburger Mühle」がある。


ユースホステルフロイスブルク










上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。