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宮殿・城郭・城館・邸・田舎の貴族邸いろいろ ーただのwikiを訳しただけー
お城好きだけど歴史に疎い 何を如何したいのか? 解りません。 そのお城に関わる物語を紐解き、妄想の糧に      ただのアホ

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貧乏人は贅沢な領主たちの生活がしてみたい。
特にヨーロッパの王侯貴族のように・・・。
そこから城好きが始まりました。


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ゴットルフ城-Schloss Gottorf-
Schloss Gottorf
Schloss Gottorf
Schloss Gottorf
Schloss Gottorf
Schloss Gottorf
Schloss Gottorf



シュレスヴィヒ・ホルスタイン州のゴットルフにある城。
中世からルネッサンス期の要塞だったものを800年後にバロック様式の宮殿に建て替えられた。
1161年にシュレヴィヒ司教として赴いたファルケンベルクが北方民族との戦いのために要塞を築かせたのが最初。しかし、デンマークの前に何度も破壊された。
1268年この地をドイツ帝国の土地にしようとシャウエンブルク伯爵を送り込んだが、やはり敗れてしまった。
1459年アドルフ8世に子供がいなかったために、デンマークは弟の息子のフレデリクに継がせることとなった。その当時のデンマークはスカーネ、ハランド、プレキンゲ、そしてシュレースヴィヒを領土とし、最大にはノルウェーの南部をも占領していた。この地はフレデリクの妻の領土となり、北欧ルネッサンス様式の宮殿を建てることにした。
フレデリクの息子クリスチャン3世は弟のアドルフにこの地を領土として与え、1544年彼をシュレースヴィヒ・ホルスタイン公爵にし、この地は公国となった。そしてゴットルフはその都となった。しかし、この公国はあくまでデンマークの支配下に置かれた。
シュレスヴィヒ・ホルスタイン公爵フレデリック3世はヨーロッパの文化交流の場としてこの城に宮廷を開いた。
でも17世紀後半からデンマークはスウェーデンの前に衰退していった。
シュレースヴィヒ・ホルスタイン公国はデンマークとの関係を続かせながら、大国となったスウェーデンとの関係も重視した。フレデリク4世風に建てられたバロック宮殿の拡張をスウェーデン人の建築家ニコデムス・テッシンに依頼した。でも18世紀のキスローでも戦いでフレデリク4世は亡くなり、宮殿建設は休止に追い込まれた。やがてその戦いは公国にも飛び火し、スウェーデンはこの公国を自国の領有に含めるべくデンマーク王室と切り離そうとしていたが、結局デンマーク、シュレースヴィヒ・ホルスタイン公国は共にスウェーデンの領地となった。
デンマークはスウェーデン王国の一地方として王が存在し、その分家としてゴットルフだけがコペンハーゲンから遠く離れていてもその場所だけが小さく存在した。そしてシュレースヴィヒの本拠地はキールに置かれ、その地の宮殿にスウェーデン王国のホルスタイン地方政府が置かれた。またデンマークの知事となっていたフリードリヒ・エルンスト・フォン・ブランデンブルク・クルムバッハは1768年にハンブルクのデンマーク王の発令により、カール・フォン・ヘッセン・カッセルに呼びかけ、ゴットルフ城、ルイルンド、カールスブルクなどの城を完成させた。
1848年デンマークとプロイセンの戦いで城は軍事病院となった。その後、この建物は公爵の宿泊所となったあと大きな馬小屋になったりしていた。1867年の第2回シュレスヴィヒ戦争において兵舎だった。1945年までその状態は保たれていた。
1917年に南西翼は火災に遭い、1920年には反乱軍に占拠され、その戦いのために10人が死亡した。
1945年以降城はドイツ帝国軍東部戦線からの帰還兵の住居として使われ、1948年に国立シュレスヴィヒ博物館として使われるようになった。


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グリュックスブルク城-Schloss Glücksburg-
Schloss Glücksburg
Schloss Glücksburg



1192年にシュレスヴィヒに聖ミヒャエルの山に修道院が出来たのが始まり。それはやがてゴルドホルムの聖ヨハネ修道院として僧侶たちが集い、1209年から1210年に今日のグリュックスブルクのシトー会修道院となった。
その近くに城が築かれ、1538年にはデンマーク王国の領地となり、司教が世俗的領主を兼ねるものとなった。
城の住人は1582年から時のデンマーク王のフレデリク2世の弟のヨハン3世が所有した。
ヨハン3世の死後、1622年この土地はシュレースヴィヒ・ホルスタイン公国となり、神聖ローマ帝国の一領邦国家として、デンマーク王国とは袂を分かつこととなった。
Philipp (Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)†1663
Christian (Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg) 、†1698
Philipp Ernst (Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg) 、†1729
Friedrich d. Ä (Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg) , † 1766 、
Friedrich Heinrich Wilhelm (Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg) ,、†1779
と代重ねされていく。
最後のフリードリッヒ・ハインリッヒ・ヴィルヘルムの息子からデンマーク王となる(1824年まで)
デンマーク王フレデリック6世は弟にホルスタイン公爵の地位を与えてグリュックスブルクを継がせた。
しかし、この後にプロイセンやヘッセンカッセル家、などと領地争いになったのかとにかくグリュックスブルク家はロシアやイギリスなどと血縁関係になりながらではあったが、小国として生き延びたにも拘らず、プロイセンの策略に呑まれていった。
第2次大戦後、一時はデンマーク領になったがこの地はドイツ領として回復すると、グリュックスブルク城はヨーロッパの王家と親戚関係になる由緒正しい公爵として今もその家系は受け継がれている。
ドイツ貴族の中でも1・2を争う名家です。


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キール城-Kieler Schlosses-
Kieler Schlosses
ドイツはお城が山ほどあるところ。

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方の都キールにあるお城です。
デンマークに近いところの半島にある地方です。この城はシュレースヴィヒ公によって作られたが、未亡人が住んでいた。1665年財団が作られて、やがてここはキール大学になる。
しかし、その後北方戦争の余波でこの地方はデンマーク領になった。が、シュレースヴィヒ公国からロシアのピョートル3世に嫁いだエカテリーナが何とかしてくれたのか、ロシアのツァールスコエセローでの条約でデンマークから独立した模様。しかし、その跡はプロイセンの領土になってしまい、この城は
1888年から1918年にハインリッヒ王子の住居になった。
第一次大戦後は城の意味が無くなり、博物館になったりしたが、第2次大戦で破壊されて一部を残すのみとなった。

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